テントの中のチリを出すユミカさんの図。テントを畳む前に、こうやって掃除する。
食事を終え、片づけをした後も、僕らはしばらくの間のんびりと談笑していたが、時刻も10時を過ぎ、他のライダーさんたちもパッキングをすませて、出発しようとしている。僕らもパッキングに取りかかることにした。
このパッキングが終わったら、僕らは別れ別れにならなくてはならない。
作業を進めるにつれ、僕はそれを強く意識するようになっていた。昨晩からも、時折頭を過ぎっていたことであったが、その度ごとに僕はそれを無視してきた。だが、ここまで来てしまっては、その瞬間のことを直視しないわけにはいかなかった。
ユミカさんは、明日苫小牧からフェリーに乗って帰る事になっている。フェリーの予約もしてあるそうだ。
僕はと言うと、今日の夜に札幌で知人と会うことになっている。苫小牧へ向かおうというユミカさんも一緒に……と言うわけには行かない。
さすがに、知人とのことをキャンセルするという選択肢も頭をよぎった。だが、その彼にしても、この忙しい時期に僕と会うために時間の工面をしてくれているのだ。やはりそんな不義理な真似は出来ない。実際の所、札幌の知人とも会いたい。やはり僕は、予定通りに単独で夜までに札幌へ行かなくてはならない。
結局、各々が立てた予定通りに行動しようとするならば、ユミカさんと一緒に行動をとれるのは、どうしてもここまでなのだ。
寝袋、クッカー、鞄……と、片づけが進むたびに単独行動へ戻るまでの時を刻んでいく。何だか、ものすごく切ない気分であった。
ユミカさんは、これまでと同じように明るく振る舞っている。ユミカさんにも僕のこの後の予定は話してあるし、忘れてしまっては居ないのだろうが、遠くから聞こえる単車の空ぶかしのリズムが可笑しいと言って笑ったり、テントの中の塵を出す光景(画像参照)を写真に撮ろうとするとおどけて見せたりと、この後のことを全く意識していないように見えるほど、楽しそうにしていた。
それを見た僕は、(ちぇっ、少しは別れを惜しむ素振りを見せてくれてもいいのになあ)と、チラリと思ったが、2人そろって深刻な表情をし、黙々と作業を続けるよりは、いくらもマシかと思い直した。そして、明るく振る舞って見せているのは、あるいはユミカさんの配慮……と考えるのは僕の思い上がりだろうか……などとも思った。
地図を見るユミカさん。(上)カメラを構える僕に気付き、「ライダーらしい」ポーズをとってくれた。(下)
やがて、パッキングは終わり、僕らはいつ出発しても大丈夫な状況になった。ユミカさんは既に単車にまたがり、暖機運転さえ始めていた。
僕はデジカメを取り出し、未練がましくユミカさんの単車にまたがった姿を撮影したのち、とうとう僕はこう言った。
「ユミカさん、とうとうここから別々ですね」
僕がそう言うと、ユミカさんはこっくりとうなずいた。純然たる気のせいだったのかも知れないが、ユミカさんも寂しげな表情をしているように思えた。
ああ、本当に、もう一緒に走ることは出来ないのだ。二度と会うことはないのかも知れないのだ……そう思うと、僕の体の中にある衝動が湧き起こった。
それは、抑えるのがとても難しく、とはいえ、本当は抑える必要など無いものなのかも知れなかった。
10年早く出会っていれば抑えなかった衝動かも知れないし、「気分が開放的になっている旅先での出会いは、出会う人をより素敵に見せるもの」という知識だか経験だかみたいなものが、理性となって歯止めをかけたのかも知れないし、そういう問題でもないかも知れない。単純に拒絶されることに臆病になっていて、何も出来ずにいる腰抜けだということなのかも知れない。
あるいは、とっくに何百キロもある単車にまたがっている人に対して、滅多なことをしては危険だという配慮が働いたこともあっただろうか。
いずれにせよ僕はそれを抑えた。抑えたからといってどうなるものでもないが、抑えなかったからといって、その後僕が何を出来るでもない……そうも思ったかも知れない。
まるで15分ほども考え込んでいたかのように書いているが、「とうとうここから……」から少し間をあけて、僕はこう言った。
「ゴミは、僕が捨てていきます。先に行って下さい。見送りますよ」
ゴミを入れた袋をハンドルに掛けて持っていこうとしていたユミカさんにそう言うと、ユミカさんはこっくりと頷いて、僕にコンビニの袋2つ分くらいのゴミを手渡した。
ここでユミカさんがあまり発言していないのは、ユミカさんのハーレーの排気音が大き目で、しかもヘルメットを被っていて、会話しにくいから……だったのだと思う。
「じゃあ、いぐ。この後も気を付けてね」
と、ユミカさんは挨拶をし、クラッチを繋いだ。
「ええ。ユミカさんも、この後も気を付けて、楽しい旅を」と、僕も挨拶を返し、手を振った。
小さくなっていくユミカさん。
貴方のお陰で、本当に楽しい旅になりました。
ユミカさんは、万全を期してか、未舗装路が苦手なのか、跨ったまま草地に脚をつきながら、歩くようにして、ゆっくりと僕から離れていく。
やがて舗装路へ出ると、こちらを見ないまま手を振り、脚をステップに載せて走り去って行った。
ユミカさんが視界から消えてからも暫く、ユミカさんが走り去っていった方を、ゴミ袋を手にしたままぼーっと眺め続けた。
僕が抑えたという衝動が、どういうもので、何に由来していて、どんなことをしようとしたか、具体的に書かなくても、読んでいる皆さんはおおよそお分かりだろう。明確に衝動の正体を書かないのは、単なる照れ隠しではなく、その衝動に関する感情の正体を、この旅を終えてからも明確にしないままだからなのである。
いろんな理屈はさておき、結果として僕は、魅力的な女性と良い出会いがあり、特別支障となるものなどなくても、別れ際に見送ることしかできない臆病なオジサンに過ぎなかったと言って良いだろう。
「キャンプ場で会って、宴会をやって、その場で別々になって、でもその後別のルートで同じ場所でバッタリ会って……それがいいんです」
僕は、キムアネップキャンプ場で出会ったパイプの御仁の言った事を再び思い出した。
北海道のキャンプ場という、北海道へやってきた人間からすれば「異空間」で知り合った人とのことは、日常まで引きずらない方がいい……そういう意味でもあるのではないだろうか、と僕は思うようにした。パイプの御仁のその言葉は、心の中に出来た空洞に、反響しながら響き渡っているかのようだった。
「これで良かったんだ」と思えてきた。いや、もはやそう思うしかなかったのだ。
「僕もそろそろ行かなくちゃ」そう思い、僕はヘルメットを被った。
もしも洞爺湖へ早めに着けるようであれば、小品の一枚くらい描けるに越したことはないし、それが出来ないようであれば、早めに札幌へ向かい、知人と連絡を取って待ち合わせの場所などを打ち合わせるなどすべきだろう。
スケッチ旅行という点においては、洞爺湖は僕の最終目的地だ。日程的に充分なスケッチは出来そうにないが、目的地と決めた以上は行ってみなくては。
……などと、スケッチや、これから会えるであろう知人や、洞爺湖のことなどを考えると、気持ちも落ち着いてきた。
ようやくエンジンをかけた僕は、ゴミ袋を、ハンドルの左のグリップに引っ掛けて走り出した。前夜にユミカさんを捜してウロウロしたときに、ゴミ捨て場の位置は記憶にある。道路をまたいで再び場内へ入り、左へ行けば管理棟やキャンプ場、右へ行くとゴミ捨て場なのだ。
ゴミは、生ゴミと、空のボンベなど不燃物とに分けてあった。中身に応じたゴミ入れへとゴミを入れたが、「ああ、これは、ユミカさんと楽しく過ごした挙げ句に生じたものなのだ」と思うと、捨てるのがためらわれた。ゴミ一つ捨てるのにこんな切ない気持ちになるのは初めてのことであった。