13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

さらばハンバーガー

また間を空けてしまったが、久々のブログである。

PCでの閲覧しか考えていない……つまり、モバイル・フレンドリーではない形でスタートした当アトリエのサイトだったのだが、人様には「今どきのホームページは、7割がスマートフォンによる閲覧なので、対応された方がいいですよ」などと言っていたクセに、サイト公開からほぼピッタリ3年経って、ようやくレスポンシブデザインによるサイトが完成した。
長年制作側として様々なサイトを見てきた上で不満に思う部分の幾つかを解消できたサイトに仕上がったと自負している。件名は「体重を減らそうと思っている」ということではない。

世の中のサイトが、PCよりもスマートフォンで閲覧されるようになってきた理由を納得するくらい、私自身もスマートフォンを使うようになってから、調べ物も含めてスマートフォンで閲覧する機会が増えてきた。
その中で気になっていたのが「ハンバーガーメニュー」と呼ばれる≡の格好をしたボタンを押してメニューを開くもので、スマートフォンにも対応したサイトだと、大体の場合左からペロンとメニュー画面がスライドして出てきたりする。2枚のバンズの間にパティ(ハンバーグ)が挟まっている様子と似ているからこう呼ばれるようだが、スマートフォンも大型化していこうというのに、右上隅に配置されていることが多く、指を伸ばすのが億劫なうえ、メニューがペロンと出てきてそれまで見ていたページの大半を隠してしまうと、それまで何を見ていたか忘れてしまうし、下手すれば何を見ようとしていたかも忘れてしまうこともある。
要するに、使い勝手が良くないと思うのである。

なぜこのボタンがトレンドとなり常識化してしまっているのかを考えると、Facebookがこのボタンによるメニュー表示を採用していたことの影響が大きいのではないかと思う。
PCサイトで、膨大なページ数のサイトなどは、スマートフォン対応しようとすると、全面リニューアルということになり費用もかさむが、グローバルナビ部をjQueryやcssを使ってハンバーガーメニュー化してしまい、サイドバーがあればメインコンテンツ下に追いやるなどして、比較的少ない工数で対応できるのもメリットだったのだろうけど、あの使い勝手の悪さはサイト内の回遊を阻害し、高い直帰率を産み出すと思っていたのだ。

一方、PCサイトの頃の設計を引きずっていたのか、画面上端やトップビジュアルの下などにあったグローバルナビが、スクロールに伴って隠れると、フローティングメニューという形で再びグローバルナビが現れる仕組みになっているサイトはチラホラ見かけたが、これも大部分が表示されるのは上部。スマートフォンでは結局エイっと指を伸ばさなくてはならない。
画面が横長のPCでは画期的と言えただろうけれど、クリックしなくてはならない場所へのポインタの移動は少なければ少ないほど、リンクは押してもらいやすくなるのは不変の道理だ。

そこで、私が考えたのは、持つ手の左右に関係なく押しやすく、画面最下部に固定して表示されるグローバルナビ。スクロールしても画面下部に常に表示されているので、見ていたページを遮ったりしなくてよいし、スマートフォンは、殆どの人が縦長の状態でサイトを閲覧するだろうから、ページ下部の10%程度が常にコンテンツを隠していたとしても影響は少ないうえ、片手で持ち替えたりせずに見るべき主要なページを閲覧できるという、高い操作性も兼ね備えている。制作側のメリットとしても、htmlとcssだけで実装できて簡便だし、jQueryなど使うより読み込みも早いと思う。
私はこのグローバルナビの方式を、bottom0ナビ(=ボトムゼロナビ。画面の底からの距離を0として固定することに由来。)と名付けている。

と、スマートフォン時代に万能であるかのように思えるbottom0ナビだが、実は自認する弱点もある。
ナビに配置する項目数が多いと押しにくくなるばかりか、ボタン上の文字を小さくしなくてはならなくなるので、あまり多くのページをナビに組み込めないということ。2018年での普遍的なスマートフォンの画面サイズでの実感として、6つくらいが限界だと思うが、その問題も、当サイトの制作物一覧ページと料金・発注ページで、1つ答えを出した。
必要なページでは、2段目のナビを表示してしまえば良いのだ。これも何も難しい技術を使わずにできるし、当サイトで採用しているボタンのサイズであれば、それほど押し間違いは起こらないと思う。
iPhoneユーザーの私としては、もう1つ問題に感じるのは、ブラウザがsafariの場合、bottom0ナビを押そうとすると、戻るボタンやブックマークボタンのアイコンが表示された黒いメニューがせり出してきて、この動作中にはボタンが反応しなくなり、2度、3度とタップしないと行きたいページへ遷移しないという点も問題点ではある。但しこれは、主にsafariを使っている場合にのみ感じるストレスであって、検証できた1部の他機種や他のブラウザを使えば、bottom0ナビの回遊性の高さを満喫できる。
結局、ハンバーガーメニューの煩わしさに比べれば、大した事ではないと私は思っている。

ただまあ、サイトの性質にもよるのだろうけれど、スマートフォンでの閲覧が中心となるWebの世界で、100ページに及ぶようなサイトが、全体をくまなく回遊されるようなことは現実的ではないと思えるし、Web上に存在するサイトの全てがスリム化していくのではないかと思えるので、きっと私の考案したbottom0ナビは有用になると思う。いや、私がこれを主流にしていくのだ!

……と考え、いっそ実用新案でも申請しようか……と思っていたところ、ちょっと調べてみると、ハンバーガーメニューの問題点について述べた記事が幾つもヒットした。まあ、そりゃそうだが、この道の権威であるジェームズ・アーチャーという人などは、「劣った醜い撲滅すべきものである」などと言いつつ、データ分析結果を元にして、私が直感的に感じていたことと概ね同じ解説をしているようで、bottom0ナビの普及にますます自信を持ったりするわけである。

と、今回のリニューアルを足がかりとして、bottom0ナビを普及させていこうと思うのだけど、肝腎の自分のサイトをスマートフォン対応させたのが、かなり遅くなったのがお恥ずかしいところではある。

今更Facebookのこと

私がWebと関わりを持ちはじめた2000年頃、個人がWeb上で何か物を言おうと思うと、それがBBCだろうとチャットだろうと、匿名が原則だった。
皆、思い思いにハンドルネームを用意し、Web上では日常と別な人として意見交換し、違う人格を演じる醍醐味もあったりしたものだ。
勿論それは、匿名の発言者として無責任に言いたいことを言おうとする、どこか身勝手な目的であった反面、個人が特定され、発言に対して恨みを持った者から実生活で報復を受けたり、居住地がバレてストーカーの被害にあったりを防ぐ一面もあった。
それがWeb上での「匿名性」だったのだと思う。

大流行したmixiなどでも、Web上では匿名というのが常識であり、オフ会も盛んに行われていたものの、匿名であることが発言に対する安全保障みたいなところがあり、そのお陰で会員はmixi日記を安心して書けていたようなところもあったと思う。私だってそうだった。
余談だが、我が屋号である「アトリエ如瓶」の「如瓶」も、mixiにおいて初めて使った名前であって、いつしかWeb上で使う名前は如瓶でないと落ち着かなくなってしまい、オフでも顔を合わせる人たちと一緒に協力型のゲームなどしている頃は、そうした知人たちから、本名よりも「ジョビン」と呼ばれることの方が多い時期もあった。

とにかく、匿名であるがゆえに言いたいことを言え、また気軽に変身願望を具現化したり、我が身を守るために別な名前を用意して楽しんだりするのがWebでのコミュニケーションの特長であり、魅力でもあったはずだ。

ところが、Facebookが普及し始めると、携帯電話やスマートフォンで自分の顔を気軽に写せるようになったことも影響したのか、誰もが本名でSNSに参加し始め、ご丁寧に顔まで掲載するのが当たり前になった。
私もFacebookのアカウントを取得して数年経つけれど、未だに積極的に活用しようと思えないのは、本名+顔出しが当然であることへの違和感が影響しているように思えている。
そんな匿名性が排除されたFacebookにおいて、一頃は不倫したい人たちにとって重宝するツールになっているという話を聞いたり、具体的に報道されているのを見た記憶はないけれど、Facebookに顔や所在地を晒したおかげで犯罪に巻き込まれたりした人もいるだろう。
それでも皆が堂々と本人であることを公表したうえで、自らの生活やら思うことを思うがままにアップすることのリスクに対して、無神経すぎるんじゃないだろうかと思えてならない。

もともと熱心じゃないので、Facebookの由来などについてはよく知らないけれど、匿名+顔伏せが前提の頃のWeb上のコミュニケーションは、近隣か遠方かに関わらず、不特定多数の未知の存在との出会いや交流が主たる目的だったのに対し、Facebookは簡単に顔を合わせることができない既知の存在との再開を目的としているのだとしたら、実名+顔出しもどうにか頷ける。そういうスタイルでここまで普及したのだから、それだけ幅広いニーズがあったことを裏付けてもいると思うけれど、私にとっては今ひとつ実名+顔出しのコミュニケーションに楽しみを見いだせない。前述の違和感でもあり、私生活を晒すことへの恐れでもあり、数年続けてみて得られるものの少なさといい、やはり私には匿名+顔伏せの頃の方が魅力的だったように思えて仕方がない。

何故かと冷静に考えてみると、実はもう答えが出ていて、それはズバリ、自分の見てくれやら私生活に対するコンプレックスが根底にあるからだと思っているのだ。
匿名+顔伏せでのコミュニケーションであれば、少々文章を書き慣れている私の場合、気取ったセリフを吐こうが、偉そうに世相を批判しようが、言葉を弄してある程度自分を演出することができるが、実名+顔出しで同じことをやると、「何をこの小太りヒゲオヤジが気取りやがって」と思われそうで、どこか萎縮してしまうのである。
匿名+顔伏せであっても、いずれオフ会にでも参加すれば、顔出ししているのと大差はないようだが、堂々と自分の顔の画像を看板にしているのとは、見て読む人の印象は随分違うと思う。

そんな私が、実名+顔出しでFacebookでの交流を楽しめている人はどんな心境なのかを推測すると、「美味しいものを食べた」「珍しい場所へ行った」「新しいアトラクションに乗った」など、自分の達成感や優越感がモチベーションになっていて、それを標榜したいという虚栄心が根底にあるように思え、そこに共感を求めようとしているように見えている。「いいね」ボタンは、そのためにあるんだと思う。
斯くいう私だって、知己に虚栄心や慢心を具現化できるような写真とともに、自分の私生活を晒し、見る人の羨望や嫉妬を煽りたいと思うことはあるし、「いいね」ボタンを使って、みんなで同じように虚栄心をくすぐり合うことが悪いものではないのも分かるのだが、私は表現者。自分の個人情報やプライバシーと引き換えに、ちっぽけな虚栄心をくすぐるための仕掛けに精を出しながらビクビクして記事をアップするより、匿名性を盾にして表現の自由を謳歌するほうが心地よいのだ。
だから自分ってヤツはFacebookに向かないんだなあ…と思うと同時に、Facebookを利用するリスクのことについて、みんなもう少し考えてみたらいいのになあ…とも思うわけである。

おっと、まるでFacebookでの交流を楽しんでいる人たちのことを、「プライバシーと引き換えに虚栄心のくすぐり合いをしている浅はかな人たち」とも取られかねないことを書いてしまったが、飽くまで「誇れないルックスと私生活ゆえ『いいね』を貰えるような記事を載せられない」自分の適性のなさと対比させるために必要だった記述なので、怒らないでね~。

このブログについて 2

ブログのタイトルを変更した。

「写真の少ないBLOG 制作に託せないこと」というタイトルでスタートしたものの、制作にまつわることだけ書いていても、面白い話は案外書きづらく、その反面で日常にいろんな言いたいことはたくさんあったりするので、言いたいことを言わせてもらうブログとして再スタートしようと思ったのだ。

そもそも自分のここまでの一生を振り返ってみると、デザインの仕事に関わらず、「黙っていられん!」と思い、それを抑えることが出来なかったことがしばしばで、そうした堪え性の乏しさゆえ失敗したことも多かったが、チャンスを得られたこともあった。「黙っていられん!」というのは、どこか私が背負った業を示す感情であるような気もするのだ。

ともあれ、今後は世相とか種々の表現とか、思いつく「黙っていられん!」ことを幅広く書いてみようと思っている次第である。
写真が少ない…というスタイルは継承する予定であったりもする。

今のところ、安定的読者様はゼロの状態だが、今後ともよろしくお願いいたします。