13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の09

周囲の物音で目を覚ましたのは、7時過ぎくらいだっただろうか。
「お祭り」という初耳のキーワードが気になっていて、ひょっとしたら全く勘違いした場所に来てしまい、まさかY氏はここに居ないのではないかと思いつつ休眠に入った私だった。
2時間半くらいしか寝ていないにも関わらず、私はむっくりと起きあがり、公民館の建物の中から駐車場と兼用になっている庭へ出て、煙草を吸いながらY氏が現れるのを待っていた。部屋の方では女性も寝ているところだし、入っていってY氏を見付けて揺り起こして挨拶させるでもないだろうと思ったのだ。
建物の中から出てくる面々は、私より10歳前後年長の男女がチラホラ見受けられはしたものの、ほとんどが20~30代くらいの若い人たちで、美術系と思しき人たちも居たけれど、どうみてもそうは見えない人も居た。やはり美術系のイベントというのは私の早とちりだったのだろうか。
……などと、疲労のせいかまだボンヤリとした意識の中で考えていると、まだ少し眠そうな顔をしたY氏が庭に姿を現した。因みにY氏も私の一回り下で、大多数の年齢層であった。
「いやあ、如瓶さん(←実際私は、前出のバーでこう呼ばれている)、よく来ましたね。何かすっかり男前になっているじゃないですか」
「タハハ……まあ、5kgくらい痩せて、日焼けした上に髭を生やしましたからね」
今まで具体的に書かなかったけれど、仮設住宅の現場での炎天下の激務のせいで、あれほどガッチリと食事を摂っていたにもかかわらず体重は減り、額以外の顔と手の甲だけ日焼けをし、髭も剃らずにいたので、ここ一週間くらいでガラリと風貌が変わっていたのだ。

早速私は、これから参加するイベントの詳細と、何をしたら良いか、似顔絵を描くスペースは確保できるのか……などを、Y氏に尋ねた。
Y氏の話によると、今日催行されるのは「やっぺし祭り」というもので、東日本大震災後に地元の復興のためのイベントに加え、炊き出しや支援物資の配布などを兼ねて行い、被災した人に多角的に力になろうとするものだったようだ。「やっぺし」とは岩手県の方言で「よしやろう!」という意味なのだそうだ。
1カ月前が第1回で、その時はワークショップなどの美術系のイベントも含まれていたそうなのだが、今回はスポーツイベントが中心になるとのことだった。バーで「ワークショップをやった」みたいな話を聞いて、美術系のイベントと決めつけていたのかも知れない。
「とりあえず手伝って貰えると嬉しいのは、支援物資の積み下ろし・陳列と、会場のテントとかの設営なんですけど、大丈夫なんですか?」と、Y氏はあまり寝ていない私を気遣ったが、
「せっかくスペースを借りて似顔絵を描かせて貰えるんですから、可能な限りお手伝いしますよ」と言った。
似顔絵のスペースも、公民館から折り畳み椅子を2脚借りる事が出来たし、どうにか支障なく確保できそうだった。

東京から大船渡市まで7人乗りの車で来ていたY氏は、
「準備を始めるまでに時間があるし、何人か連れて被災地を見に行くんですけど、一緒に来ますか?」と、私に言った。
大船渡市は、最も多く死傷者を出した石巻市の次くらいに被害が大きかった事くらいは知っていたものの、ここへ来るまでに通ってきた国道沿いにそれらしい光景を見なかったし、それを遠慮して寝させてもらおうものなら余計にしんどくなりそうだったので、同行することにした。
「紹介します。こちらが主催者のIさんです」車に乗り込もうとした私に、Y氏が言う。
I女史は大船渡市に実家のある女性で、私より10歳くらい年長か。以前は都内のTV局で働いていたキャリアウーマンだったそうだが、現在は現代美術を中心にした美術品を、購入することによって作家を育て、マーケットを拡大しようという運動をしているという人であった。
そういう活動をしようというだけあってか、よく日焼けしていることも手伝って、一瞥してギラギラしたパワフルさを感じさせる女性であった。
現在は東京在住と聞いた気がするが、震災時の津波で実家は流されてしまったらしい。彼女もやはり被災者だったのだ。

ざっとした挨拶をしたのち、我々はY氏の車に乗り込み、I女史の案内で被災地へ赴いた。

何事もなかったかのような市街地……とはいえ、地方にありがちなこぢんまりとしたものではあったが、数分も海側へ進んでいくと、やがて光景は大きく様相を変え、うっかりすると居眠りしそうだった私もいっぺんに目が覚めた。
電車が通らないため錆び付いた線路。
その先には駅舎ごと無くなってしまった駅。
更に進むと、TVでも何度も見た、基礎だけが残っているような家屋や店舗。
形が残っている建物にしても、敷地内には未だ残る瓦礫が無造作に散乱していて、建っているのが不思議に見えたりもした。
大きな建物も点在していて、被災前はそれなりに開けた港町だったことは良く分かったが、活動している人が居るとすれば瓦礫の撤去をしている人だけであって、閑散としているというより荒涼としている感じにすら見えた。それらは何か、パニック映画の終盤でしか見られないような非現実的な光景だった。
道路の瓦礫こそすっかり片づいてはいたものの、今もなお被災した人たちの恐怖や絶叫が漂っているような、その場にいるだけで不安を駆り立てられるような凄惨さがあった。
一番驚いたのは、4階建てくらいのショッピングモールの屋上にあった、三分の一くらい頭を覗かせて、今にも落ちてきそうな乗用車であった。屋上が駐車場になっていたのだとしたら、あんな高さのところにまで波が押し寄せたという事なのだろうか。
あまりにも晴れた朝の強い日差しの降り注ぐ震災後の港町は、未だ恐怖や悲憤、あるいは狂気をたたえた空気で満たされているようだった。

車に乗っていた一同は、例外なく発すべき言葉を無くしていたが、案内をしてくれるI女史は、
「踏切を一時停止しなくて良いのは今だけだからね」
「この辺は何も残っていないけど、出掛けるならちょっとオシャレして行くような感じの通りだったんだけどね」
「あ、あそこが私の実家があったところーー」
などと、意外なまでにあっけらかんと説明してくれていた。震災から4カ月が経とうとしている頃だったからか、精神的にタフな人だからなのか、私には良く分からなかった。いずれにせよ、しっかりと現実を受け止め、今何をしなくてはならないかを冷静に考えられるからこそ、「やっぺし祭り」を主催できたのだろう。

……と、非現実的な現実を一通り見てきた我々は、言葉に出来ない衝撃の余韻を車中に漂わせながら「やっぺし祭り」の準備をすべく、ひとたび公民館へ戻って行ったのであった。

…………まだまだ続く

気がつけば被災地・其の08

7月9日、仮設住宅の現場に入ってからの平均的な時間に作業を終えた私は、旅館へ戻ると大船渡市へ向けての一時離脱のための準備を進めた。
翌10日の午前中には、前出・Y氏が参加しているイベントに参加し、似顔絵描きをすることになっているので、到着が早いに越したことはないのだが、色々と我が儘を聞いた上で働かせてもらっている関係上、早退したいとは言えなかった。
この現場へ来る前は、私の仕事が終わりになるのは9日までのはずだったのだが、これまた前述の通り、作業には遅れが生じていて、他に発生するかも知れないトラブルに備える意味もあって、12日には現場に戻る事になってもいたのだ。
苛烈を極める現場仕事を終え、似顔絵描きで完全燃焼して東京へ戻るのが理想だったのだが、折角好待遇で仕事が出来るのだから、もう2、3日働くのもアリか……というのも本音だった。

さておき、大船渡での唯一の足がかりとなるY氏とは、近所のバーで「参加すれば似顔絵を描くボランティアが出来る」という確認をとっただけで、そのイベントの詳細について何も知らないままだった。
Y氏にしても数回バーで話をしたことがあるだけであって、美大出身のY氏がボランティアとして参加していて、似顔絵を描くスペースや機会を与えられるのだから、何か美術系のイベントなのだろうと、私は勝手に決めつけていた程度だった。
要するに私としては、似顔絵を描いて被災した方々のせめてもの慰みになれれば、イベントがどんなものであるかすらどうでも良かったのだ。

Y氏に「イベントに参加できる」と、ハッキリとした意思表示をしたのも現場に来てから2、3日経過してから携帯電話のメールでしただけだったし、その時でさえオオフナトシという目的地の名称すら記憶が曖昧な有様で、どこへ集合したらよいのかとか、大まかな道順を聞いたのも出発の前々日だった。
Y氏からの返事のメールには「……から2時間半くらいで到着」と書かれていた。受信直後の私は、激務を終え、入浴を済ませたのち、ヴォリュームたっぷりの食事を残さず食べるという大仕事をこなして、どこか朦朧としていたので、旅館からY氏と再会するまでは、多めに見積もっても3時間くらいなのだろうと認識していた。

荷物をバイクに積み、いざ出発しようと思うと、もはや21時過ぎ。Y氏が宿泊している公民館に到着する頃には日付が変わっているかも知れない……と、思った。とにかく急がなくては。
と、そんな焦りもあったためか、出発間近にコンビニエンスストアで飲み物を調達しようとバイクから降りようとしたとき、買ってから数回しか履いていない安全靴(ライディングブーツ代わり)が荷物に引っかかり、みっともなくバイクごと転倒してしまった。
下半身は全体的に軽く筋肉痛で、思ったより脚が開かなかったのと、履き慣れていない安全靴と積んでいた荷物の高さとを充分に認識できていなかったのが原因だったと思う。
慌ててバイクを起こし、飲み物を飲み終えて出発しようと思うと、左足の違和感に気付く。
「うっ、ステップが折れている」
立ちゴケしたときに、起きたことだったらしい。同じような立ちゴケは過去にも無くは無かったし、それでステップが折れるなんて信じられない気分だったが、何ともさい先が悪い。
左側のステップは、走行中に足を乗せるだけでなく、リアブレーキのペダルも付いていて、そのどちらもがフレームから欠落していたのである。
「修理は東京に帰ってからということになると、これから先の道中はリアブレーキ無しか」
……と思うと、何とも心細かったが、まあバイクの走行中に比較的リアブレーキは使わないし、足を乗せる場所は2人乗りの時に同乗者が乗せるステップで代用できる。何より、この程度この事で大船渡行きを諦めるわけには行かないので、構わず走り出し、やがて東北自動車道へ乗る私であった。

Y氏のメールによると、高速を降りたのち、国道284号線から国道45号線と渡っていけば目的地の公民館に到着するとのことであり、私はサービスエリアでの給油などの機会に地名などをメールで確認していたのだが、ふと時間を見るともう24時間近。降りるべき一関の出口までにはもう少しかかりそうだ。
おかしい……と思った私は、もう一度メールをよく読んでみた。
「しまった! 2時間半というのは高速を降りてから公民館までの時間だった!!」
ギョッとした私は、想定したよりも遅くなりそうだとY氏に連絡を取ろうとしたが、こちらの様子を察したかのようにY氏から電話が入る。
「仕事も早く抜けるわけには行かず、到着は明け方になるかも知れません」と、そろそろ寝たいというY氏に告げ、連絡が遅くなったことを詫びた。
Y氏によると、45号線にゴンゲンドウという大きめの川に橋のある交差点があり、近くにある目印というと、そこくらいしかない……との事だったので、本当は迎えにくらい来て欲しかったのだけれど、遅くなるという連絡も遅れてしまったし、これ以上迷惑はかけられない。
駐在所の巡査さんを叩き起こしてでも到着しよう、と私は決意した。

読解力を損なうほどの疲労のせいで、かかる時間を勘違いし、Y氏にも心配を掛け……と、ステップの折れたバイクで国道284号線を走っていた私は、意気の消沈を禁じ得なかったが、国道45号線へ入るのに失敗したらしく、山あいの民家が点在するような峠道へ入ってしまった。やるせないったらありゃしない。
結局、相馬市の旅館へたどり着いた時のように、カンにまかせて走っているうちにどうにか45号線に乗ることが出来た。
国道に出ると、コンビニエンスストアが見付かり、水分補給とトイレがてらに店員さんに確認をとった。
「ゴンゲン……何とかっていう場所はこの先ですか? 下富岡公民館という場所が近くにあるか分かりますか」
「……そうですね。権現堂はこの先です。ただ、下富岡公民館はこの地図でもわかりませんねえ。どうしてもという場合は、途中に警察署がありますから」と、わざわざ地図を出して調べてくれた店員さんに礼を言い、再び出発した。
Y氏の説明通り、川の近くに権現堂という交差点を確認できたが、ちょっと周辺を走ったくらいでは公民館は見付からなかった。
「店員さんのアドバイス通りにするか」
ステップの折れた整備不良の状態で警察署へ行くのは抵抗があったが、このさいやむを得まい。駐在さんを叩き起こすよりはずっとマシだ。

警察署へ入り、カウンターの向こう側に2、3人いる巡査さんに下富岡公民館へ行きたいと話すと、「そこへ何の用かね?」と、日焼けしてヒゲ面で小汚いジャンパーを着ていた、ヘルメットでも持っていなければホームレスと紙一重の風貌の私に、巡査さんも尋問口調だったが、「似顔絵描きのボランティアで……」と事情を話すと、「おお、そうでしたか。おい、ちょっと誰か、下富岡公民館って知らないか」と、他の巡査さんにも協力を要請し、地図を調べてくれた。
権現堂の交差点から橋を渡ったのち、右折後左折……と、クランク状に曲がった先が公民館であった。

到着すると既に夜はすっかり明けた四時半。駐車場にバイクを停めて様子を窺うと、ほぼ民家くらいの規模の公民館はひっそりとしていて、本当にここにY氏がいるとしても、探しようがなさそうだった。
どうしたもんかなあと煙草を吸っていると、中から初老の男性が起き出してきた。
チャンス! とばかりに小声で話しかけてみると、
「そうです。今日のお祭りのボランティアの方が来てますよ」とのことだった。
(……お祭り?)と思いつつも、まあここでほぼ間違いないだろうと思った私は、安堵と共に強い疲労感に襲われた。
忍び足で建物の中に入り、廊下と部屋を仕切っている襖をそっと開けてみると、男女入り乱れて雑魚寝している光景が目に入る。
これでは荷物を置いて寝るスペースを探すなんて無理か……と諦めた私は、板張りの廊下に置いてあったしっかりした大きさのサッカーゲーム(レバー操作でボールを弾いて遊ぶヤツ)のスペースに寝場所を定め、荷物を枕にしばしの休眠をとるのであった……。

…………もうちょっと続く

気がつけば被災地・其の07

さて、ここまで私は順を追って、くだくだしくも荒っぽい文章で、震災直後の私の動向から、調べたこと、考えたこと、実感したこと、見たことなどを順を追って書いてきた。
それが私見の域を出ないものであったとしても、各種のメディアでは報じられていないことを選んで書いてきたつもりだし、被災地へ行きたくても行けていない方々にとっては、それなりのニュースヴァリューがあるものと信じて、それなりの分量の費やして書いてきた。
だがこれは、震災のレポートをしつつ、一人の絵描きが震災とどう関わったかを書き記したいものなのであって、仮設住宅の現場での私の仕事ぶりとか苦労に関してはかなりの割愛を施したいと考えている。

直前のUP分までは、パテ打ちのことなども含めて現場の様子や働きぶりに関しても、比較的細かく書いてしまった気はするが、それも仮設住宅の現場の様子は震災のレポートに当たる部分だと判断したからだし、「建設現場でアンタが何の仕事をして来たの?」と思う方も多いであろうから、具体的な仕事の内容を書いたに過ぎないのだ。
実際のところ、現場にいた間の仕事のことや、人間関係やら人間模様など細かく書いてしまえば、それなりに色んなドラマやトラブルがあったし、書いてしまえばそれなりに読み応えのあるものになりそうなのだが、それは震災レポートでもなければ絵描きとしての私の在り方でも何でもないのだから。

そんなわけで、なるべく本題に沿ったことを総括的に書いていこう。

約2週間、現場にいて一番強く思ったのは、繰り返し物資も人材も不足していて……と書いたけれど、どちらかというと人材の不足の方が問題で、それが連鎖的にトラブルを起こし、作業を難航させていたのだということ。
初回のUP分の冒頭に、タイの職人の杜撰な作業のことを書いたが、実は何割かの日本人の職人とて同様であった。

私が担当していた壁面の修復という点から見ても、室内から打ち込んだ木ネジが長すぎて外壁を突き破っていたりとか、脚立や資材の角をぶつけて新しい凹みや傷が出来ていたりとか、私が作業をしている期間中にも修復箇所が次々と増えていく有様。ネジや釘のサイズを見誤るなど、中学校の技術家庭科でも落第点だ。
お陰で、手元が見えなくなる日没ギリギリまで作業しなくてはならない日が、毎日のように続く羽目になった。

それと同様に、あちこちで問題点が見付かり、現場を仕切っている地元の建設会社の指示で、まともな仕事ぶりの業者がやり直しをし、二度手間になる。もともと予算や規模が大きい割に工期は圧縮されていて、色んな業者が入れ替わり立ち替わり作業をするので、どこか一カ所で作業が滞ると、他の業者が手を付けられない作業や場所が多数出てきて、さらに作業が滞る……と、連鎖的に問題が生じていたのだ。
そんな落第レベルの職人を集めてきたのは、一つの現場に複数絡んでいるうちのどれかの人材派遣の会社であって、人材のスキルやモラルなどをチェックする余裕もなかったのか、始めからその気もなかったのかは分からないけれど、
「行けっていうから来てやったのに、道具も用意してないんじゃ仕事できない」
などと、手ぶらで現場に来て何もしないまま帰っていった職人がいたばかりか、仮設住宅と並行して建てられた集会所の備品を盗んで帰った職人も居たようだった。

現場で聞いた話では、
「同じ東北でも日本海側の県を当たれば、人材はむしろ余っていて、そういうところから良質な人材を集められなかった(現場を仕切っている地元の)建築会社に責任がある」
との事だったけれど、自ら人材を確保できない建築会社が仮設住宅の現場を仕切らなくてはならない事自体が、人材不足なのではないだろうか……と、私には思えた。
やはり普通のことが普通に出来ないほどに被害の規模が大きかったのだ……というのが、つくづく私の感じるところであった。

私が現場に入って間もなくだったか、既に出来上がっている仮設住宅で雨漏りが問題になっていると聞いたが、恐らく「人材不足」はどこの現場も似たり寄ったりだったのではないだろうか。
これも初回のUP分で書いたことをもう一度書くけれど、パテ打ちが主な仕事だったのに、2日目、3日目と作業を中断し、屋根の上で防水加工のやり直しの手伝いをすることになったのも、他の仮設住宅での雨漏りが大問題になっているのを受けての事であり、よそでの杜撰な仕事が、私のいた現場にも影響を及ぼしたと言えなくはないだろう。

現場以外の事での見聞に関しても書いておこう。
私の泊まっていた栄荘という旅館は、相馬市にある松川浦という潮干狩りで有名な観光地の傍にあった。
M氏が言っていた通り食事が美味しい旅館であり、私としては海の傍の旅館だから新鮮な魚の料理を期待していたのだが、漁船がほぼ全滅していて近海の漁業がストップしていたため、魚の料理が出たとしても干物や焼き魚が中心となっていた。
サービスも良く、宿泊費も決して高くはない綺麗な旅館なので、1年後か2年後にでも再び訪れ、新鮮な海の幸を頂いてみたいと思っている。海辺のスケッチをしに来るには打ってつけだ。

滞在中に、私と同い年だという女将さんに、
「似顔絵描きのボランティアをしたいのですが、この近くに避難所などはありませんか?」
と聞いてみたところ、
「福島は仮設住宅の造成が順調で、比較的近くにある避難所が市内で最後の避難所になっており、そこで生活している人も多くはない」
……とのことであった。
津波の被害とは別に、原発事故という深刻な問題を抱えている福島の事だから、まだまだ避難所が沢山あるのではないかと思っていた私には意外だったが、福島の場合、各市は内陸にまで広がっていて、市役所などの行政機能が失われずに済んだそうで、対応が速やかだったのだそうだ。
恐らく8月になっても瓦礫が山積みになっているという石巻市などは、被害の大きさもさることながら、津波によって行政機能が失われたために復旧が捗っていないのだろう。
寝泊まりの御世話になった相馬市で、似顔絵描きの出番が無かったのは少し残念だったが、避難所で不便な生活をしている方が思ったより少なくなっているのは喜ばしいことだ。
そんな話を聞いたのは7月の上旬だったので、お盆の時期を過ぎた今(執筆時)、少なくとも相馬市の避難所は無くなっていることだろう。
大きな難を逃れた旅館で寝泊まりしていたこともあってか、相馬市や南相馬市は、住まう人々が想像していたよりは日常を取り戻しつつあるような印象であった。

今回分の最後に特筆に値すべき事を書いておくと……。
やはり人材不足の影響と言うべきか、仮設住宅の現場はオジさんというよりは爺さんと言って遜色ない年代の人が多かった。建設現場などは、やはり女っ気の無い職場であって、至ってむさ苦しい。
旅館には女将さんや仲居さんなどに女性がいるが、やはり中高年の女性が中心だし、部屋に戻れば他4人のオヤジたちとの相部屋で(到着時より1人増えた)、寝付きの悪い私は高鼾の四重奏に悩まされたりもした。
そんな生活が1週間ほど続いた頃、M氏を含めた現場の人たちと2度ほど、現地のスナックにお酒を頂きに出掛けたのだが、斯くもむさっ苦しい男の空気の中にどっぷり浸っていた私に、スナックの若い女性の姿は、壮絶なまでに艶っぽく眩しく見えた。

次は大船渡市へ行く前日から、また順を追って書くことにしよう。

…………もっともっと続く