13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の07

さて、ここまで私は順を追って、くだくだしくも荒っぽい文章で、震災直後の私の動向から、調べたこと、考えたこと、実感したこと、見たことなどを順を追って書いてきた。
それが私見の域を出ないものであったとしても、各種のメディアでは報じられていないことを選んで書いてきたつもりだし、被災地へ行きたくても行けていない方々にとっては、それなりのニュースヴァリューがあるものと信じて、それなりの分量の費やして書いてきた。
だがこれは、震災のレポートをしつつ、一人の絵描きが震災とどう関わったかを書き記したいものなのであって、仮設住宅の現場での私の仕事ぶりとか苦労に関してはかなりの割愛を施したいと考えている。

直前のUP分までは、パテ打ちのことなども含めて現場の様子や働きぶりに関しても、比較的細かく書いてしまった気はするが、それも仮設住宅の現場の様子は震災のレポートに当たる部分だと判断したからだし、「建設現場でアンタが何の仕事をして来たの?」と思う方も多いであろうから、具体的な仕事の内容を書いたに過ぎないのだ。
実際のところ、現場にいた間の仕事のことや、人間関係やら人間模様など細かく書いてしまえば、それなりに色んなドラマやトラブルがあったし、書いてしまえばそれなりに読み応えのあるものになりそうなのだが、それは震災レポートでもなければ絵描きとしての私の在り方でも何でもないのだから。

そんなわけで、なるべく本題に沿ったことを総括的に書いていこう。

約2週間、現場にいて一番強く思ったのは、繰り返し物資も人材も不足していて……と書いたけれど、どちらかというと人材の不足の方が問題で、それが連鎖的にトラブルを起こし、作業を難航させていたのだということ。
初回のUP分の冒頭に、タイの職人の杜撰な作業のことを書いたが、実は何割かの日本人の職人とて同様であった。

私が担当していた壁面の修復という点から見ても、室内から打ち込んだ木ネジが長すぎて外壁を突き破っていたりとか、脚立や資材の角をぶつけて新しい凹みや傷が出来ていたりとか、私が作業をしている期間中にも修復箇所が次々と増えていく有様。ネジや釘のサイズを見誤るなど、中学校の技術家庭科でも落第点だ。
お陰で、手元が見えなくなる日没ギリギリまで作業しなくてはならない日が、毎日のように続く羽目になった。

それと同様に、あちこちで問題点が見付かり、現場を仕切っている地元の建設会社の指示で、まともな仕事ぶりの業者がやり直しをし、二度手間になる。もともと予算や規模が大きい割に工期は圧縮されていて、色んな業者が入れ替わり立ち替わり作業をするので、どこか一カ所で作業が滞ると、他の業者が手を付けられない作業や場所が多数出てきて、さらに作業が滞る……と、連鎖的に問題が生じていたのだ。
そんな落第レベルの職人を集めてきたのは、一つの現場に複数絡んでいるうちのどれかの人材派遣の会社であって、人材のスキルやモラルなどをチェックする余裕もなかったのか、始めからその気もなかったのかは分からないけれど、
「行けっていうから来てやったのに、道具も用意してないんじゃ仕事できない」
などと、手ぶらで現場に来て何もしないまま帰っていった職人がいたばかりか、仮設住宅と並行して建てられた集会所の備品を盗んで帰った職人も居たようだった。

現場で聞いた話では、
「同じ東北でも日本海側の県を当たれば、人材はむしろ余っていて、そういうところから良質な人材を集められなかった(現場を仕切っている地元の)建築会社に責任がある」
との事だったけれど、自ら人材を確保できない建築会社が仮設住宅の現場を仕切らなくてはならない事自体が、人材不足なのではないだろうか……と、私には思えた。
やはり普通のことが普通に出来ないほどに被害の規模が大きかったのだ……というのが、つくづく私の感じるところであった。

私が現場に入って間もなくだったか、既に出来上がっている仮設住宅で雨漏りが問題になっていると聞いたが、恐らく「人材不足」はどこの現場も似たり寄ったりだったのではないだろうか。
これも初回のUP分で書いたことをもう一度書くけれど、パテ打ちが主な仕事だったのに、2日目、3日目と作業を中断し、屋根の上で防水加工のやり直しの手伝いをすることになったのも、他の仮設住宅での雨漏りが大問題になっているのを受けての事であり、よそでの杜撰な仕事が、私のいた現場にも影響を及ぼしたと言えなくはないだろう。

現場以外の事での見聞に関しても書いておこう。
私の泊まっていた栄荘という旅館は、相馬市にある松川浦という潮干狩りで有名な観光地の傍にあった。
M氏が言っていた通り食事が美味しい旅館であり、私としては海の傍の旅館だから新鮮な魚の料理を期待していたのだが、漁船がほぼ全滅していて近海の漁業がストップしていたため、魚の料理が出たとしても干物や焼き魚が中心となっていた。
サービスも良く、宿泊費も決して高くはない綺麗な旅館なので、1年後か2年後にでも再び訪れ、新鮮な海の幸を頂いてみたいと思っている。海辺のスケッチをしに来るには打ってつけだ。

滞在中に、私と同い年だという女将さんに、
「似顔絵描きのボランティアをしたいのですが、この近くに避難所などはありませんか?」
と聞いてみたところ、
「福島は仮設住宅の造成が順調で、比較的近くにある避難所が市内で最後の避難所になっており、そこで生活している人も多くはない」
……とのことであった。
津波の被害とは別に、原発事故という深刻な問題を抱えている福島の事だから、まだまだ避難所が沢山あるのではないかと思っていた私には意外だったが、福島の場合、各市は内陸にまで広がっていて、市役所などの行政機能が失われずに済んだそうで、対応が速やかだったのだそうだ。
恐らく8月になっても瓦礫が山積みになっているという石巻市などは、被害の大きさもさることながら、津波によって行政機能が失われたために復旧が捗っていないのだろう。
寝泊まりの御世話になった相馬市で、似顔絵描きの出番が無かったのは少し残念だったが、避難所で不便な生活をしている方が思ったより少なくなっているのは喜ばしいことだ。
そんな話を聞いたのは7月の上旬だったので、お盆の時期を過ぎた今(執筆時)、少なくとも相馬市の避難所は無くなっていることだろう。
大きな難を逃れた旅館で寝泊まりしていたこともあってか、相馬市や南相馬市は、住まう人々が想像していたよりは日常を取り戻しつつあるような印象であった。

今回分の最後に特筆に値すべき事を書いておくと……。
やはり人材不足の影響と言うべきか、仮設住宅の現場はオジさんというよりは爺さんと言って遜色ない年代の人が多かった。建設現場などは、やはり女っ気の無い職場であって、至ってむさ苦しい。
旅館には女将さんや仲居さんなどに女性がいるが、やはり中高年の女性が中心だし、部屋に戻れば他4人のオヤジたちとの相部屋で(到着時より1人増えた)、寝付きの悪い私は高鼾の四重奏に悩まされたりもした。
そんな生活が1週間ほど続いた頃、M氏を含めた現場の人たちと2度ほど、現地のスナックにお酒を頂きに出掛けたのだが、斯くもむさっ苦しい男の空気の中にどっぷり浸っていた私に、スナックの若い女性の姿は、壮絶なまでに艶っぽく眩しく見えた。

次は大船渡市へ行く前日から、また順を追って書くことにしよう。

…………もっともっと続く

気がつけば被災地・其の06

出勤初日の朝、私は旅館で同室の防水加工の職人さんの運転する車で現場へ向かった。
早朝6時起きで6時半出発……。ここへ来ることがなければ、年の9割くらいは寝ているはずの、個人的には信じられない早朝の出勤である。

前夜のM氏との話し合いの中でも、私が具体的に何の作業をするかは決まっていなかった。
車で通勤を共にする防水加工の職人さんから手ほどきを受けて手伝いをするか、或いは輸入してきたものの、輸送中に歪みが生じたサッシの矯正をするか、とにかく建設や建築に関する専門的な技術がない分、指示が流動的になるだろうから、柔軟に対処して欲しい……という程度のことしか決まらなかったのだ。
こんな風で大丈夫なのか? 今夜にでも来て欲しいという切迫感がまるでないじゃないか……などと思いながら、昨夜通ってきたのと概ね同様の道を通っていくと、朝日に照らされて津波の爪痕がつぶさに目に飛び込んできた。
左手に見える海面には何台かの車が沈んでいるのが見え、路肩から歩道あたりの狭いスペースに、ドン! と大型の漁船が鎮座していたり、再オープンに向けて工事中のコンビニエンスストアがあるかと思えば、ガラス窓がほとんど割れてまだまだ営業再開の見通しが立っていないような釣具屋があったり……。
国道6号に出ると、見渡す限りの田園風景の中に、数隻の漁船が点在していたり、あらかた墓石がなぎ倒された墓地が見えたり……。
昨日は夜だったせいで何も見えていなかったけれど、私はこんな非日常的な光景の中をバイクで走り、旅館へ向かっていたのか……と思うと、大津波が来て大きな被害を受けた場所に、今自分が来ているのだということを、改めて思い知らされた。
震災前は、普通に風光明媚な観光地や農村だっただろうに……と思うと、胸に迫るものがあった。

30分ほどで、現場に到着。
この現場の仮設住宅は、数世帯分が4~5列あって1ブロックで、A~Fブロック分建てられていて、約150世帯分になるとのことだった。当然の事ながら、敷地は結構広い。
地面に杭を打ち込んだような基礎(こうした簡素な基礎であることが仮設住宅の定義らしい)部分にグレーの壁……と、既にニュースなどで見たような住宅がズラリと並んでいて、概ね建物の体を為していた。
この広大なスペースも、元は休耕地の畑で、地主さんから県だか国だかが無償で借りていて、予定されている仮設住宅設置期間の2年後に返却されることになっているのだそうだ。
この辺の経緯や成り立ちは、おおよそどこも同様なのだろうと思えた。

さて、到着から間もなくして始業時間となった。
朝礼が始まるとのことで、現場に来ている業者や職人が集まってきた。この日だけで、120人くらいの人員が集まって来ていた。
恐らくどこもがそうで、私も通勤中に電車の中から同様の光景を見たことがあったけれど、こうした現場には朝礼の前にラジオ体操から始まるのだ。
やはりここもそうであって、何年かぶりにラジオ体操第一をやった。
ラジオ体操が済むと、現場を仕切っている建設会社の偉い人(部長だったか?)から面白みのない話を聞かされ、各業者ごとの職長から人員やその日の作業内容の説明などがあり……と、正しく朝礼の光景。
朝礼など面白いものでないのは確かだが、久しぶりにこうしたカッチリとした規律みたいなものにはめ込まれてしまうと、高校の頃に戻ったような、軍隊に入ってしまったような、心地よい緊張感を覚えた。
最後に、列の前後にいる者同士で向き合い、ヘルメット、顔色、安全靴、安全帯(高所作業時に、建物や足場などにフックを掛けるロープの着いたベルト。落下防止の為だが、屋根に登ってもフックを掛けるようなところはないので、ほぼ無意味)を指差し確認し、朝礼が終わった。

M氏のところへ行って指示を仰ぐと、まずは「仮置きしてある残材を然るべき場所に運ぶ」という作業を仰せつかった。
「最初から力仕事だけど、一緒にやるから勘弁してね」と、M氏。M氏にしても本来は建築家なので、力仕事は馴染みがないはずだが、私はそれほど力仕事は嫌いじゃないので、M氏以上に張り切って見せた。
……が、敷地の端から端まで、サッシの余りや壁面のパネルの余りを担いで運ぶのは、案外骨が折れた。
加えて、まだ1桁台の午前中だというのに、強烈な日差しにもの凄い気温で、運動不足気味な立場からすれば、過激なウォーミングアップだった。
初日からへばって見せてはM氏にも心配をかけそうだったので、すれ違いざまに、
「いやあ、夏は力仕事しなきゃねえ。何だか男に戻った気がしますよ」
などと、虚勢を張って見せたりした。

と、そんな作業をしているうちに、グレーの壁面に紫色のテープが貼ってあるのに気付いた。
テープの傍には大体傷や凹みがあり、それが分かりやすいように貼ってあるテープのようだった。
一通り残材運びが終わった後に、
「所々貼ってある紫のテープは、パネルの傷や凹みがあるところですか?」と聞くと、
「そうそう、あれも直して欲しいって言われてるんだよねえ」とのことで、中間検査の時に、検査員が貼っていったものらしい。
「アレは、どこの業者さんが担当するんですか?」と更に聞くと、
「いや、決まってない。ひょっとして出来る?」とM氏。
大学卒業直後に私がやっていたアルバイトは造形屋であり、造形屋とは公園のベンチや滑り台から、義岩、義木などの造りの細かいものまで、ガラス繊維を挟み込んだ樹脂で様々なものを造形する業者であり、成形の過程で出来る傷や穴や凹みを修繕するのは、そこそこの経験があったのだ。
「出来ます。やります!」
自分のやるべき仕事が見付かった私は、残材運びのダメージも吹き飛ぶ思いで元気良く答えた。

この凹みが出来ているパネルは、3cmくらいの厚さの断熱材を薄い鉄板で挟んだつくりになっていて、タイ国から輸入したものだった。鉄板は住宅の壁材に塗料を吹き付けて出来たような微妙な凹凸があって、なおかつグレーで塗装してあり鉄骨に固定してしまえばそのまま仕上がってしまうように出来ている。仮設住宅の建材として用いるには、手間がかからない打ってつけのものであるはずだったのだが……。
歪みが生じているサッシも同様にタイから輸入したもので、貨物船で輸入してきたらしいのだが、本棚に本を立てて詰めるようにして積むはずのところを、パネルと同じように平積みにしてきたために歪みが生じたらしい。
何故わざわざタイから輸入してきたかというと、パネルについては国内で断熱材が調達できなかったからであり、サッシにしても必要な数を揃えられなかったからだそうだ。
要するに、他の仮設住宅建設のために国内の在庫は底をついており、輸入するしか方法が無かったのだそうだ。
阪神大震災の時にも、同じような物資不足で建材を輸入したような話は聞かなかった気がすることを考えると、今回の震災はやはり被害規模が桁違いであったのだろうと想像できる。
下野した政党は阪神大震災の時と比較して、与党の対応が遅いと短絡的に攻撃しているけれど、建材の調達も国内で賄えないほど桁違いの被害が出ているということであって、復旧の進展が遅いのはリーダーシップの問題だけでは無いのではないかと、私には思えた。

さておき、初日の午後の仕事は、壁面のパテ打ちと決まったため、私は左官屋さんが使うような手板の上で、せっせとパテに硬化剤を混ぜ、壁面に出来た凹みや傷にヘラでパテを充填し、綺麗にならして回ったのだった。

「何だ、あまり過酷な肉体労働という感じじゃないじゃないか」
……と思う方もいるかも知れないが、強烈な炎天下に、大きな石がゴロゴロしていて足場の悪い路面を、歩いているだけでも相当に体力を消耗する。
敷地が広大なら壁面も広大で、その一棟一棟をくまなくチェックし、凹みがあればパテを打っていく……そんなことを繰り返していると、やはり心身共に参ってくる。

そして、パテの硬化剤は、多く混ぜれば硬化が早くなるし、高温によっても硬化を早めるので、うっかり硬化剤を混ぜすぎると手板の上のパテはあっという間に硬化してしまい、使い物にならなくなってしまう。
私の使っていた資材置き場にあったパテは、ポリエステルパテと呼ばれる比較的硬化後のヒケ(体積が減ること)が少なく、強靱に仕上がるパテで、自動車の傷や凹みの修繕にも使われるものだが、強靱な分盛りすぎると削るのが大変だし、薄すぎると2度3度と盛らなくてはならず、手間がかかる。要するに、案外奥が深くて神経を使う作業なのだ。
仕上がったら仕上がったで、パテはパネルの色と違うため、ちょっと見には分からないくらいに色合わせをした塗料を塗ってようやく作業が終わるのであって、手間のかかる作業でもあるのだ。
私以外にそれをやる人間はいないことを考えると、本当に工期期間中に終えられるのかと思うと、不安がこみ上げてきた。

また、建物を直接的に組み上げる作業だとか、あちこちの仮設住宅でも問題になっていた雨漏りの対処をすべく防水加工をするだとかならば、被災者の今後の生活にダイレクトに貢献出来ている感じがするけれど、私のやっている壁面の修復は、検査でチェックされるから修復の必要が生じているだけで、住まう人の住み心地が向上するようなものではない。
「壁面に凹み一つ無いから住みやすそうだ」と思われることも無ければ「凹みの修復技術が優れているから安心して住める」と思われることもないような仕事なのだ。
結局、最終検査をパスしないことには、仮設住宅が完成したことにはならないので、必要な作業ではあるのだけれど、検査のための作業であって、やはり被災地のための貢献という実感は感じにくい。
「何か不毛だなあ」……という気持ちと戦いながら、私は黙々と作業を続けるのであった。

……………もっとつづく(今後はもう少し早くUPします 汗)

気がつけば被災地・其の05

目的地は、M氏が宿を取っている福島県の相馬市であり、到着時間を21時と決めた私は、荷造りや作業着の調達などを終え、逆算した14時頃にアパートを出た。
北海道へのスケッチ旅行を敢行した2003年以来の長距離走行だが、スケッチ旅行と比べれば荷物も軽いし、北海道まで行ったことを考えれば大した距離とは思えなかったのだが、何しろ年代物のバイクなので安心は出来ない。
M氏の話では、まだあちこち通れないところがあるから、二本松という出口で高速を降りたらとにかく国道6号線を目指し、その後北上するようにと聞いていたので、なるべく原発を避け、分かりやすいルートを検討し、
「二本松→国道459号線→国道114号線→国道6号線尾浜→県道38号線→旅館」
などとに携帯電話のメモに控え、国道6号から旅館までの比較的詳細な地図を、地図サイトから画面をキャプチャーし、iPod touchに保存しておいた。

この日、6月29日の東京は猛暑で、自宅で荷造りしているだけでも目眩がしそうになったほどだったため、日中のライディングは避けたかったのだが、夜の到着を目指すと、これを避けて通るわけには行かなかった。
途中でゲリラ豪雨かと思うような通り雨に出くわし、水煙で視界がゼロになったときにはオシッコちびりそうになったけれど、それ以外はどうにか無事で、日没後くらいには高速道路を降りることが出来た。

国道459号から114号へと乗り換えようとする手前で立ち寄ったコンビニエンスストアで、
「相馬市へ行きたいんですけど、このまま行けば114号ですよね?」と聞いてみたところ、店主さんとおぼしき男性に、
「そうですけど、今通行止めになっているから相馬の方へ行くなら迂回しないとダメですね」
……と言われてしまった。げっ、そうだったのか。地図サイトの情報では、放射能漏れによる交通規制までは分からない。

迂回路を簡単な地図で書いてもらった私は、再び書いてもらったルートに変更し、再びバイクを走らせた。
説明と地図によると、国道6号線に出てしまえば、あとはiPod touchに控えた地図で旅館にはたどり着けそうだったのだが、土地勘や地名に疎い私にとって「簡単な地図」による案内は余りに情報不足で、山あいの県道が中心の迂回路は案内標識の情報も乏しく、迷路そのものであった。
気がつくと周囲には明かりが灯る民家も少ない細い道に迷い込んでいた。
チラホラと明かりが灯っている以上、電気が回復していない訳ではなさそうだが、停電かと思うような暗がりに取り囲まれてしまっている。
携帯電話を使って地図サイトを参照してみたりなどしたが、画面が小さくて自分のいる場所がどこなのかも把握できないし、充分に調べようと思うには電池の残量も少なかった。

最後の手段とばかりに、比較的大きな道路の交差点で停車し、まれに通る車の行く先を見極めた。
数分の間に2、3台の車が通過していったが、どれも同じ方向に走っていて、その行く先の夜空は少しだけ明るく見えた。

「きっとあっち側に行けば市街地か、最低でも国道や県道があるに違いない」

…と予想した私は、藁にもすがる思いで進路を決めた。
そこから十数分ほど走っていくと、田んぼだか畑だか暗くて分からない細い道の先に、両脇に街灯が備わった広い道が見えた。

「やった! 6号線だ!!」

国道の案内標識を見付けた私は、ヘルメットの中で歓喜の声をあげた。
やがて見付かったコンビニエンスストアで確認をし、M氏に「あと30分以内に到着できそうだ」と電話したのち、更に十数分ほど北上し、県道38号線に入ることが出来た。

浜通りとも呼ばれる国道6号線は、海岸線から幾らか近いはずで、多少津波の影響を受けているのかと思ったが、街灯もきちんと灯っていたし、大きな川をまたぐ橋に大きな段差が出来ていたりはしたものの、道路に陥没があるわけでも、それを直した後があるわけでもなく、バイクで走る上で何も支障がなかったのだが、ほぼ海岸線ぞいに走っている県道38号線はかなり様子が違っていた。
街灯はおろか、信号すら回復しておらず、民家やコンビニエンスストアでさえ明かりが消えていたのだ。

「ひょっとしたら、この辺りはもろに津波を被ったのだろうか」

自分のバイクのヘッドライト以外には灯りらしい灯りが無い状態でしばらく走っていると、ガツンと激しい衝撃が。跨っていたタンクに股間を強打した私は、どうにか転倒することなく走り続けたが、どうやらこの県道38号線にはあちこちに深いくぼみが出来ているようで、そこに突っ込んでしまったのだった。くぼみは恐らく液状化の影響だろう。
一旦バイクを路肩に止め、iPod touchに収めた地図を参照した。この先にあるはずの旅館を左折すれば、すぐに目的地である「栄荘」なる旅館が見えるはず。
だが、果たしてM氏らも宿泊しているはずの旅館が、この闇の続く県道の先にあるのだろうか……と、不安がよぎる。
速度を落として走っていると、左折の目標であった旅館の看板が見えた。旅館らしき建物も確認できたが、灯りは消えていて営業しているようにも見えない。
「栄荘」はすぐ傍のはずなのだが……と思い、細い路地を左折してみると……。

「うっ」

思わず私は小さく声をあげた。
ヘッドライトの光の先に浮かび上がる光景は、昼か夜かの違いはあれ、ここ3カ月あまりTVで何度も何度も見てきた被災地の光景そのものだったのだ。
駐車場と思しき土地には錆び始めた車がひっくり返っていたり、民家の壁には大穴が空いていたり……。
国道6号線までは、ほとんど震災の影響を感じなかったのだが、泊まろうとする旅館のすぐ近くまで来て、こんな光景といきなり出くわすとは……。
道路が瓦礫で塞がっていたっておかしくないような光景だったが、そこは3カ月という月日の間に撤去されたのだろう。
バイクを停車し、周囲を見渡すと、民家のすき間から煌々と旅館の看板が灯っているのが見えた。被災地のど真ん中のような場所から垣間見える明るい看板は、私にとってとても異様に映ったが、間違えて道路一本早く左折してしまったことに気付いた私は、周囲の光景に目を奪われつつ、ゆっくりと引き返した。

「本当に……本当にここは被災した土地なんだ……」

今更ながらに、私はそう実感した。
ヘッドライトは主に道路を照らしているため気付かなかったが、県道38号線沿いの光景も、これと大差ないものだったのかも知れない。

もう一本先の道路を左折すると、暗がりに煌々と照明を浴びた「栄荘」の入り口が見えた。
この栄荘は、38号線から少しだけ……2mもないほど高台に建っていたお陰で難を逃れたという事なのだろうか。
携帯電話を開くと、もう23時になろうかとしている。予定よりも2時間近く遅れてしまった。
バイクを泊めて荷物を下ろし、フロントへ向かうと、女将さんが出てきて、部屋へ案内してくれた。ついさっき見た光景が嘘のように綺麗な旅館で、震災直後に建ったかのようにすら感じられた。

部屋へ通されると、M氏の他に2人の職人さんがくつろいだ格好でビールだか缶酎ハイだかを飲んでくつろいでいて、予定よりも遅れて到着した私の到着を歓迎してくれた。
お2人に挨拶を済ませ、改めてM氏を見ると、まあよく日焼けしていて、1カ月間現場にいたことを饒舌に物語っていた。

本来は食堂で食べるはずの食事を部屋に運んでもらっており、荷物を置いたのち、早速ヴォリュームたっぷりの食事を食べ終えた。

缶ビールを勧められ、皆さんと乾杯したのち、到着までの経緯を軽く話したあと、私はM氏に尋ねた。

「明日から……私は何をしたらいいんでしょうか?」

……………まだまだつづく