13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の06

出勤初日の朝、私は旅館で同室の防水加工の職人さんの運転する車で現場へ向かった。
早朝6時起きで6時半出発……。ここへ来ることがなければ、年の9割くらいは寝ているはずの、個人的には信じられない早朝の出勤である。

前夜のM氏との話し合いの中でも、私が具体的に何の作業をするかは決まっていなかった。
車で通勤を共にする防水加工の職人さんから手ほどきを受けて手伝いをするか、或いは輸入してきたものの、輸送中に歪みが生じたサッシの矯正をするか、とにかく建設や建築に関する専門的な技術がない分、指示が流動的になるだろうから、柔軟に対処して欲しい……という程度のことしか決まらなかったのだ。
こんな風で大丈夫なのか? 今夜にでも来て欲しいという切迫感がまるでないじゃないか……などと思いながら、昨夜通ってきたのと概ね同様の道を通っていくと、朝日に照らされて津波の爪痕がつぶさに目に飛び込んできた。
左手に見える海面には何台かの車が沈んでいるのが見え、路肩から歩道あたりの狭いスペースに、ドン! と大型の漁船が鎮座していたり、再オープンに向けて工事中のコンビニエンスストアがあるかと思えば、ガラス窓がほとんど割れてまだまだ営業再開の見通しが立っていないような釣具屋があったり……。
国道6号に出ると、見渡す限りの田園風景の中に、数隻の漁船が点在していたり、あらかた墓石がなぎ倒された墓地が見えたり……。
昨日は夜だったせいで何も見えていなかったけれど、私はこんな非日常的な光景の中をバイクで走り、旅館へ向かっていたのか……と思うと、大津波が来て大きな被害を受けた場所に、今自分が来ているのだということを、改めて思い知らされた。
震災前は、普通に風光明媚な観光地や農村だっただろうに……と思うと、胸に迫るものがあった。

30分ほどで、現場に到着。
この現場の仮設住宅は、数世帯分が4~5列あって1ブロックで、A~Fブロック分建てられていて、約150世帯分になるとのことだった。当然の事ながら、敷地は結構広い。
地面に杭を打ち込んだような基礎(こうした簡素な基礎であることが仮設住宅の定義らしい)部分にグレーの壁……と、既にニュースなどで見たような住宅がズラリと並んでいて、概ね建物の体を為していた。
この広大なスペースも、元は休耕地の畑で、地主さんから県だか国だかが無償で借りていて、予定されている仮設住宅設置期間の2年後に返却されることになっているのだそうだ。
この辺の経緯や成り立ちは、おおよそどこも同様なのだろうと思えた。

さて、到着から間もなくして始業時間となった。
朝礼が始まるとのことで、現場に来ている業者や職人が集まってきた。この日だけで、120人くらいの人員が集まって来ていた。
恐らくどこもがそうで、私も通勤中に電車の中から同様の光景を見たことがあったけれど、こうした現場には朝礼の前にラジオ体操から始まるのだ。
やはりここもそうであって、何年かぶりにラジオ体操第一をやった。
ラジオ体操が済むと、現場を仕切っている建設会社の偉い人(部長だったか?)から面白みのない話を聞かされ、各業者ごとの職長から人員やその日の作業内容の説明などがあり……と、正しく朝礼の光景。
朝礼など面白いものでないのは確かだが、久しぶりにこうしたカッチリとした規律みたいなものにはめ込まれてしまうと、高校の頃に戻ったような、軍隊に入ってしまったような、心地よい緊張感を覚えた。
最後に、列の前後にいる者同士で向き合い、ヘルメット、顔色、安全靴、安全帯(高所作業時に、建物や足場などにフックを掛けるロープの着いたベルト。落下防止の為だが、屋根に登ってもフックを掛けるようなところはないので、ほぼ無意味)を指差し確認し、朝礼が終わった。

M氏のところへ行って指示を仰ぐと、まずは「仮置きしてある残材を然るべき場所に運ぶ」という作業を仰せつかった。
「最初から力仕事だけど、一緒にやるから勘弁してね」と、M氏。M氏にしても本来は建築家なので、力仕事は馴染みがないはずだが、私はそれほど力仕事は嫌いじゃないので、M氏以上に張り切って見せた。
……が、敷地の端から端まで、サッシの余りや壁面のパネルの余りを担いで運ぶのは、案外骨が折れた。
加えて、まだ1桁台の午前中だというのに、強烈な日差しにもの凄い気温で、運動不足気味な立場からすれば、過激なウォーミングアップだった。
初日からへばって見せてはM氏にも心配をかけそうだったので、すれ違いざまに、
「いやあ、夏は力仕事しなきゃねえ。何だか男に戻った気がしますよ」
などと、虚勢を張って見せたりした。

と、そんな作業をしているうちに、グレーの壁面に紫色のテープが貼ってあるのに気付いた。
テープの傍には大体傷や凹みがあり、それが分かりやすいように貼ってあるテープのようだった。
一通り残材運びが終わった後に、
「所々貼ってある紫のテープは、パネルの傷や凹みがあるところですか?」と聞くと、
「そうそう、あれも直して欲しいって言われてるんだよねえ」とのことで、中間検査の時に、検査員が貼っていったものらしい。
「アレは、どこの業者さんが担当するんですか?」と更に聞くと、
「いや、決まってない。ひょっとして出来る?」とM氏。
大学卒業直後に私がやっていたアルバイトは造形屋であり、造形屋とは公園のベンチや滑り台から、義岩、義木などの造りの細かいものまで、ガラス繊維を挟み込んだ樹脂で様々なものを造形する業者であり、成形の過程で出来る傷や穴や凹みを修繕するのは、そこそこの経験があったのだ。
「出来ます。やります!」
自分のやるべき仕事が見付かった私は、残材運びのダメージも吹き飛ぶ思いで元気良く答えた。

この凹みが出来ているパネルは、3cmくらいの厚さの断熱材を薄い鉄板で挟んだつくりになっていて、タイ国から輸入したものだった。鉄板は住宅の壁材に塗料を吹き付けて出来たような微妙な凹凸があって、なおかつグレーで塗装してあり鉄骨に固定してしまえばそのまま仕上がってしまうように出来ている。仮設住宅の建材として用いるには、手間がかからない打ってつけのものであるはずだったのだが……。
歪みが生じているサッシも同様にタイから輸入したもので、貨物船で輸入してきたらしいのだが、本棚に本を立てて詰めるようにして積むはずのところを、パネルと同じように平積みにしてきたために歪みが生じたらしい。
何故わざわざタイから輸入してきたかというと、パネルについては国内で断熱材が調達できなかったからであり、サッシにしても必要な数を揃えられなかったからだそうだ。
要するに、他の仮設住宅建設のために国内の在庫は底をついており、輸入するしか方法が無かったのだそうだ。
阪神大震災の時にも、同じような物資不足で建材を輸入したような話は聞かなかった気がすることを考えると、今回の震災はやはり被害規模が桁違いであったのだろうと想像できる。
下野した政党は阪神大震災の時と比較して、与党の対応が遅いと短絡的に攻撃しているけれど、建材の調達も国内で賄えないほど桁違いの被害が出ているということであって、復旧の進展が遅いのはリーダーシップの問題だけでは無いのではないかと、私には思えた。

さておき、初日の午後の仕事は、壁面のパテ打ちと決まったため、私は左官屋さんが使うような手板の上で、せっせとパテに硬化剤を混ぜ、壁面に出来た凹みや傷にヘラでパテを充填し、綺麗にならして回ったのだった。

「何だ、あまり過酷な肉体労働という感じじゃないじゃないか」
……と思う方もいるかも知れないが、強烈な炎天下に、大きな石がゴロゴロしていて足場の悪い路面を、歩いているだけでも相当に体力を消耗する。
敷地が広大なら壁面も広大で、その一棟一棟をくまなくチェックし、凹みがあればパテを打っていく……そんなことを繰り返していると、やはり心身共に参ってくる。

そして、パテの硬化剤は、多く混ぜれば硬化が早くなるし、高温によっても硬化を早めるので、うっかり硬化剤を混ぜすぎると手板の上のパテはあっという間に硬化してしまい、使い物にならなくなってしまう。
私の使っていた資材置き場にあったパテは、ポリエステルパテと呼ばれる比較的硬化後のヒケ(体積が減ること)が少なく、強靱に仕上がるパテで、自動車の傷や凹みの修繕にも使われるものだが、強靱な分盛りすぎると削るのが大変だし、薄すぎると2度3度と盛らなくてはならず、手間がかかる。要するに、案外奥が深くて神経を使う作業なのだ。
仕上がったら仕上がったで、パテはパネルの色と違うため、ちょっと見には分からないくらいに色合わせをした塗料を塗ってようやく作業が終わるのであって、手間のかかる作業でもあるのだ。
私以外にそれをやる人間はいないことを考えると、本当に工期期間中に終えられるのかと思うと、不安がこみ上げてきた。

また、建物を直接的に組み上げる作業だとか、あちこちの仮設住宅でも問題になっていた雨漏りの対処をすべく防水加工をするだとかならば、被災者の今後の生活にダイレクトに貢献出来ている感じがするけれど、私のやっている壁面の修復は、検査でチェックされるから修復の必要が生じているだけで、住まう人の住み心地が向上するようなものではない。
「壁面に凹み一つ無いから住みやすそうだ」と思われることも無ければ「凹みの修復技術が優れているから安心して住める」と思われることもないような仕事なのだ。
結局、最終検査をパスしないことには、仮設住宅が完成したことにはならないので、必要な作業ではあるのだけれど、検査のための作業であって、やはり被災地のための貢献という実感は感じにくい。
「何か不毛だなあ」……という気持ちと戦いながら、私は黙々と作業を続けるのであった。

……………もっとつづく(今後はもう少し早くUPします 汗)

気がつけば被災地・其の05

目的地は、M氏が宿を取っている福島県の相馬市であり、到着時間を21時と決めた私は、荷造りや作業着の調達などを終え、逆算した14時頃にアパートを出た。
北海道へのスケッチ旅行を敢行した2003年以来の長距離走行だが、スケッチ旅行と比べれば荷物も軽いし、北海道まで行ったことを考えれば大した距離とは思えなかったのだが、何しろ年代物のバイクなので安心は出来ない。
M氏の話では、まだあちこち通れないところがあるから、二本松という出口で高速を降りたらとにかく国道6号線を目指し、その後北上するようにと聞いていたので、なるべく原発を避け、分かりやすいルートを検討し、
「二本松→国道459号線→国道114号線→国道6号線尾浜→県道38号線→旅館」
などとに携帯電話のメモに控え、国道6号から旅館までの比較的詳細な地図を、地図サイトから画面をキャプチャーし、iPod touchに保存しておいた。

この日、6月29日の東京は猛暑で、自宅で荷造りしているだけでも目眩がしそうになったほどだったため、日中のライディングは避けたかったのだが、夜の到着を目指すと、これを避けて通るわけには行かなかった。
途中でゲリラ豪雨かと思うような通り雨に出くわし、水煙で視界がゼロになったときにはオシッコちびりそうになったけれど、それ以外はどうにか無事で、日没後くらいには高速道路を降りることが出来た。

国道459号から114号へと乗り換えようとする手前で立ち寄ったコンビニエンスストアで、
「相馬市へ行きたいんですけど、このまま行けば114号ですよね?」と聞いてみたところ、店主さんとおぼしき男性に、
「そうですけど、今通行止めになっているから相馬の方へ行くなら迂回しないとダメですね」
……と言われてしまった。げっ、そうだったのか。地図サイトの情報では、放射能漏れによる交通規制までは分からない。

迂回路を簡単な地図で書いてもらった私は、再び書いてもらったルートに変更し、再びバイクを走らせた。
説明と地図によると、国道6号線に出てしまえば、あとはiPod touchに控えた地図で旅館にはたどり着けそうだったのだが、土地勘や地名に疎い私にとって「簡単な地図」による案内は余りに情報不足で、山あいの県道が中心の迂回路は案内標識の情報も乏しく、迷路そのものであった。
気がつくと周囲には明かりが灯る民家も少ない細い道に迷い込んでいた。
チラホラと明かりが灯っている以上、電気が回復していない訳ではなさそうだが、停電かと思うような暗がりに取り囲まれてしまっている。
携帯電話を使って地図サイトを参照してみたりなどしたが、画面が小さくて自分のいる場所がどこなのかも把握できないし、充分に調べようと思うには電池の残量も少なかった。

最後の手段とばかりに、比較的大きな道路の交差点で停車し、まれに通る車の行く先を見極めた。
数分の間に2、3台の車が通過していったが、どれも同じ方向に走っていて、その行く先の夜空は少しだけ明るく見えた。

「きっとあっち側に行けば市街地か、最低でも国道や県道があるに違いない」

…と予想した私は、藁にもすがる思いで進路を決めた。
そこから十数分ほど走っていくと、田んぼだか畑だか暗くて分からない細い道の先に、両脇に街灯が備わった広い道が見えた。

「やった! 6号線だ!!」

国道の案内標識を見付けた私は、ヘルメットの中で歓喜の声をあげた。
やがて見付かったコンビニエンスストアで確認をし、M氏に「あと30分以内に到着できそうだ」と電話したのち、更に十数分ほど北上し、県道38号線に入ることが出来た。

浜通りとも呼ばれる国道6号線は、海岸線から幾らか近いはずで、多少津波の影響を受けているのかと思ったが、街灯もきちんと灯っていたし、大きな川をまたぐ橋に大きな段差が出来ていたりはしたものの、道路に陥没があるわけでも、それを直した後があるわけでもなく、バイクで走る上で何も支障がなかったのだが、ほぼ海岸線ぞいに走っている県道38号線はかなり様子が違っていた。
街灯はおろか、信号すら回復しておらず、民家やコンビニエンスストアでさえ明かりが消えていたのだ。

「ひょっとしたら、この辺りはもろに津波を被ったのだろうか」

自分のバイクのヘッドライト以外には灯りらしい灯りが無い状態でしばらく走っていると、ガツンと激しい衝撃が。跨っていたタンクに股間を強打した私は、どうにか転倒することなく走り続けたが、どうやらこの県道38号線にはあちこちに深いくぼみが出来ているようで、そこに突っ込んでしまったのだった。くぼみは恐らく液状化の影響だろう。
一旦バイクを路肩に止め、iPod touchに収めた地図を参照した。この先にあるはずの旅館を左折すれば、すぐに目的地である「栄荘」なる旅館が見えるはず。
だが、果たしてM氏らも宿泊しているはずの旅館が、この闇の続く県道の先にあるのだろうか……と、不安がよぎる。
速度を落として走っていると、左折の目標であった旅館の看板が見えた。旅館らしき建物も確認できたが、灯りは消えていて営業しているようにも見えない。
「栄荘」はすぐ傍のはずなのだが……と思い、細い路地を左折してみると……。

「うっ」

思わず私は小さく声をあげた。
ヘッドライトの光の先に浮かび上がる光景は、昼か夜かの違いはあれ、ここ3カ月あまりTVで何度も何度も見てきた被災地の光景そのものだったのだ。
駐車場と思しき土地には錆び始めた車がひっくり返っていたり、民家の壁には大穴が空いていたり……。
国道6号線までは、ほとんど震災の影響を感じなかったのだが、泊まろうとする旅館のすぐ近くまで来て、こんな光景といきなり出くわすとは……。
道路が瓦礫で塞がっていたっておかしくないような光景だったが、そこは3カ月という月日の間に撤去されたのだろう。
バイクを停車し、周囲を見渡すと、民家のすき間から煌々と旅館の看板が灯っているのが見えた。被災地のど真ん中のような場所から垣間見える明るい看板は、私にとってとても異様に映ったが、間違えて道路一本早く左折してしまったことに気付いた私は、周囲の光景に目を奪われつつ、ゆっくりと引き返した。

「本当に……本当にここは被災した土地なんだ……」

今更ながらに、私はそう実感した。
ヘッドライトは主に道路を照らしているため気付かなかったが、県道38号線沿いの光景も、これと大差ないものだったのかも知れない。

もう一本先の道路を左折すると、暗がりに煌々と照明を浴びた「栄荘」の入り口が見えた。
この栄荘は、38号線から少しだけ……2mもないほど高台に建っていたお陰で難を逃れたという事なのだろうか。
携帯電話を開くと、もう23時になろうかとしている。予定よりも2時間近く遅れてしまった。
バイクを泊めて荷物を下ろし、フロントへ向かうと、女将さんが出てきて、部屋へ案内してくれた。ついさっき見た光景が嘘のように綺麗な旅館で、震災直後に建ったかのようにすら感じられた。

部屋へ通されると、M氏の他に2人の職人さんがくつろいだ格好でビールだか缶酎ハイだかを飲んでくつろいでいて、予定よりも遅れて到着した私の到着を歓迎してくれた。
お2人に挨拶を済ませ、改めてM氏を見ると、まあよく日焼けしていて、1カ月間現場にいたことを饒舌に物語っていた。

本来は食堂で食べるはずの食事を部屋に運んでもらっており、荷物を置いたのち、早速ヴォリュームたっぷりの食事を食べ終えた。

缶ビールを勧められ、皆さんと乾杯したのち、到着までの経緯を軽く話したあと、私はM氏に尋ねた。

「明日から……私は何をしたらいいんでしょうか?」

……………まだまだつづく

気がつけば被災地・其の04

そもそも人助けしていられる立場か……水もれ甲介氏の言葉を思いだした私は、次なる職として目指すWebデザイナーとして、不足している……というか、立ち後れている技術を研鑽すべく(要はカスケーディング・スタイルシート=cssのお勉強)、お勉強と求職を並行して行う日々に戻った。
折しも、cssを使って制作するにはシンプルすぎるHP作りを知人から請け負っており、その腕試しとばかりにフルcssでの処女作の制作を進めようとしたのだが、被災地での似顔絵描きのことは気になるし、多忙を極める発注者とは連絡がなかなか取れないし……などの事情で(言い訳)作業は捗らず、いたずらにストレスを鬱積させていた。

そんな6月のある夜、私は馴染みのお客の集まるお手頃な料金のバーへ出掛けた。
その店の常連には、某美大出の知人・Y氏がおり、6月の上旬に被災地でボランティアをしに行く話をしていて、こちらの被災地での仕事が見付かり、タイミングを合わせられるなら、私も合流したい……などと話をしていたのだ。
もし今夜も、タイミング良く彼と話が出来るなら、生の被災地の様子も聞いておきたいし、被災地での職探しの苦悩を、誰かに話してガス抜きをしたかった……という気持ちもあったのだ(言い訳)。

バーテンさんや他のお客さんなどに、職探しの苦悩などを話していると、バーテンさんの後輩に当たる大工さんも、しばらく被災地で仕事をしようと考え、会社を辞めてまで予定の被災地行きに備えていたらしいが、やはり話を白紙に戻され、途方に暮れているという話を聞いたりした。どこでも同じようなことが起こっているらしい。
人手不足も問題になっているというのに、何が悪ければ善意の求職者がひどい目に遭わなくてはならないのだろうか。

……と、そんな話をしている間に、果たしてY氏は現れた。
「被災地は行った方が良いですよ。ボランティアで行った方が良いですよ」
ボランティアの様子がどうだったのかを、まず尋ねた私に対して、彼はそんな答えをくれ、
「8月も、10日にやりますよ」とつけ加えた。
私も、アテに出来ない仕事を足がかりにしていくよりは、既に被災地入りして状況を知っている知人とボランティアをした方が確実なのかも知れない……などと考えた。
やはり、この未曾有の大天災に、一絵描きとして何もしなかったとあっては、一生悔いを残しそうだ。何だか、人助けというよりは、自分の生き方の問題にすり替わっていつつあったが、その分退いてはならない事であるような気がしていたのだ。

「では、金策が何とかなりそうなら、また連絡しますよ」
と、Y氏に言い、店を後にした。本当は、具体的な金策など何もなかったし、あるのならば、とっくに被災地へ行っていたのだが。

……と、それから更に1週間経ったくらい経った6月28日、金策も何も状況は全く良くなっていなかった私の元に、急展開を告げる着信が携帯電話にあった。

「Mさんが福島の仮設住宅の現場にいて、とにかく人が欲しいから、時間の空いている人を探しているって言うんだけど、如瓶さんどう?」
月一くらいのペースで行っていたスナックRという店に勤める女性からの電話であり、MさんとはRで顔なじみの建築士さんである。
「ああ、話した通り、瓦礫撤去の仕事なら探していましたけど、仮設住宅となると経験が……私で大丈夫なんですかねえ」
と聞くと、
「五体満足なら明日からでも来て欲しいって言ってたから大丈夫じゃない? とにかく電話してあげて」
……とのこと。

M氏に電話してみると、ネットで探していたよりも好待遇で、しかも経験も問わず、バイクで行くのもOKなら、Y氏のボランティアに参加するのもアリで、旅館は食事が美味しいという。
福島県は、流石に私も原発事故の影響が怖かったので、瓦礫撤去の候補地からも除外していたのだが、相馬市(宿)と、南相馬市(現場)であり、原発よりも北の方にあることを聞いて、それなら大丈夫だろうと安心したのだ。
政府が決めた同心円による避難区域指定など無意味であることを私は連日の報道から聞いて知っていたのだ。
既に1カ月滞在しているというM氏によると、
「万一の事に備えて、作業服は長袖が義務だけど、毎日線量は計測していて問題ないから心配しなくてよい」
とのお墨付きであった。

「本当は今夜にでもウチを出て欲しいけど、作業着の調達とかあるなら明日の夜にでも着いてくれれば良い」
と、更にM氏。
電話を切った私は、急すぎる展開に、今のバイクに福島までの長距離走行が大丈夫なのかとか、本当に仮設住宅の現場で私に出来ることがあるのかとか、それ以前に苛烈な肉体労働に体力が持つのかとか、気後れに任せて様々なことが不安になった。

だが、Y氏のボランティアとも重なる時期だし、あれほど切望して叶わなかった被災地行きが、こんなにも簡単に決まったのだから、これはやはり僥倖と言わざるを得まい。
何か問題があればその場で解決すればよいのだ。
今までだって、やりたい事・やるべき事のためになら、どんな事だって堪え忍んできたじゃないか。

導かれるべくして導かれたと言うべきか、念ずれば叶うと言うべきか、とにもかくにも私は、満願叶った形で被災地へ行く事になったのであった。

………更につづく