13日の金曜美術館

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電車の中で読む本

その7.嗜好品の話

 嗜好品の話を書く。
 僕はというと、お酒と、たばこをたしなむ。コーヒーは、基本的に飲まない。
 辞書によると、嗜好品とは、「栄養のためではなく、好きで飲んだり食べたりするもの。コーヒー、たばこなど」というふうに出ている。どうも一般的には、お酒も、税金を取られることからしてもその類に入っている気がするのだが、なぜ例示していないのだろう。カロリーが高いから、つまり栄養があるから嗜好品には数えないのだろうか。確かに僕などは、小食の上に飲むときはかなり飲むから、食べて取る栄養価が飲んで取る栄養価を上回ることも有り得るかもしれないが、そんなのはやはり小数派だと思うし、コーヒーだって栄養はある。お酒の立場はどうなるのだろう。

 さておき嗜好品とは、文字どおりそれぞれ個人の好き嫌いがある訳だから、他人の迷惑にならない範囲でたしなむのなら何にも問題はない。あたりまえの話である。ところがなかなかそうはいかない場合がある。そう、たばこである。
 僕も、21歳までたばこは吸わなかった。映画など見ていて、子供の頃から漠然としたあこがれや興味はあったが、むしろたばこを吸うやつの、校舎の壁でもみ消したり、所構わず投げ棄てたりする無神経さが嫌だった。そして、ドけちで知られる僕としては、『やって当然、もらって当然』みたいなところも嫌だった。
 そのうち、たいした事情があった訳ではないのだが、たばこを吸うようになってみると、喫煙者に対するヒステリックなまでの風当たりの強さを時々理不尽に感じることがある。別に駅のホームでもたばこを吸わせろとか、煙いのを我慢しろとか言っているのではない。たばこを吸うという習慣があるというだけで、粗野で無神経で傍若無人なやつだという短絡的なものの見方をやめて欲しいと言いたいのである。
 女性の中にも僕と同様な不愉快さを感じたことのある人が結構いるはずだ。男がよく言う「たばこを吸う女はイヤだ」というやつである。全く、そんな事を言う脳ミソつるつる野郎は、自動ドアに挟まれて死んでしまえばいいと思う。

 前述の如く、僕だって他人の吸うたばこに対して嫌な思いを随分してきた。それゆえ、いざ自分がたばこを吸うぞ、と決めたときにはそれなりの覚悟があった。人に迷惑をかけないという、物事を楽しむ上で正しいあり方に反するようなことはするまいと誓ったのである。例えば、おなかに子供のいる女性や、子供、気管を患っていそうな人は勿論、たばこの煙が嫌いだという人の前でも、僕はなるべく吸わないようにしているし、投げ棄てだって、絶対にしない。投げ捨てしないために吸殻入れの無いところでは吸わない。無いところで吸ってしまった場合、あるところまで持ったまま行くか、ポケットの中に入れて持ち帰るし、携帯用の吸殻入れを持ち歩くようにしている。
 いざ吸うとなっても、室内ならぐるりにたばこの傍にいてはいけない人がいないか、食事している人がいないかは勿論、吐く煙、たばこの先からでる伏流煙の行方に関しても大いに気を使うし、外で吸うときも、特に煙の行方、周囲の状況等には、配慮を怠らないようにしている。飲食店で吸うときは、隣に座っている人には、見ず知らずの人でも、必ず断ってからたばこに火をつけるようにしている。いろいろ書いたが、少なくとも僕の場合、それくらいの事は守っている。たばこは吸っても、それほど無神経に吸っている訳ではないのだ。
 「たばこを吸う女は…」にしたって、確かに吸うに当たっての気遣いやマナーに欠けている女の子もいるかもしれないが、その中にだってすばらしくチャーミングな女の子は沢山いる。たばこだけを理由に人格まで否定してしまうような勢いの短絡的な物言いは、それこそが無神経である。

 しかし、たばこの煙は有害である。僕だって、自分のも他人のも煙いと思うことがある。それを知りながら、「別に吸ったって気にしないよ」といってくれる心の広い人の前でたばこを吸うのは、内心心苦しい限りである。目の前にいなくても煙の成分は、同じ室内にいれば微量ではあれ、吸わない人の吸う息の中に忍び込んでいく。心がいたむ。幾ら僕がジェントル・スモーカーぶっていても、喫煙という行為に罪は付きまとうし、街で見かける飛び蹴りをくれたくなるような喫煙者のマナーの悪さは相変わらず目につくし、街路に落ちている投げ棄てたばこの本数が減ったりもしない。喫煙者を一括りにして、無神経と思われても仕方が無いと思ったりもするし、たばこなんてなくなってしまったほうがいいと思うことすらある。
 「そう思っているのに、たばこを吸いたいのか?」たばこを吸う人も、吸わないあなたも、僕に聞くかもしれない。しかし、僕の場合は、そうした守るべきことを守り、罪悪感を噛みしめながら吸うたばこが旨くてしょうがないのである。

 話題を変えて、今度はコーヒーの話である。先程書いたように現在僕はコーヒーを飲まない。飲めないと言ってもいい。婉曲的な表現をすると、リーゲーしてしまうのである。飲むとたちまち腹痛を起こし、トイレに駆け込み、滝のような…まではいかないが、次の日のがリーゲーだとやはりいい気分ではない。生理現象として異常なのだから当然である。不快さだけで言えば、たばこを嫌う人が、近くでたばこを吸われると、呼吸困難を起こし、卒倒してしまう様なことがないのと同程度なのでないかと僕は思っている。
 どうしたことか世間は、コーヒーという嗜好品に関して、大人になったら万人がすべからく嗜好すると思っている風潮がある気がしてならない。嗜好品である以上、どうしたって好き嫌いはあるのが当然なのに、自分が客となったとき、出していただく飲み物はまずコーヒーである。「ボク、コーヒーダメなんです」と、断る前に、何如にもにこやかに、「はーい、どうぞ」とすすめられると、もうこっちからは何も言えない。「ああ、明日はリーゲーだな」と思いながら、飲むコーヒーのほろ苦さと言ったら格別である。
 ランチのセットメニューに付く飲み物も、コーヒーだけという事も多い。友達たちとファミリー・レストランに入っても、コーヒーのお替わりあっても、紅茶のお替わりは許されない。長時間話し込もうものなら僕だけ飲み物無しの会話を続けなくてはならない。どうも、不公平な気がしてならない。同じ嗜好品にして、たばことは随分と待遇が違う。これは差別ということにはならないのだろうか?

 だいたい気を使ってたばこを吸っていても、突然たばこを嫌う人が現れ、「もう、あっちで吸ってよ」とか、「ここでたばこを吸わないでくれ」とか言うのは基本的に許される。まあもっともだと思う。でも、嗜好品という意味では物としての位置付けは同じ筈である。それなのに、所構わずコーヒーを飲む人に対して、コーヒーを飲まない僕が、「あー、コーヒー臭い。向こうで飲んでくれないか」とか、「俺のそばでコーヒーはやめてくれないか」などと言ったとしたら、僕は偏狭なやつとして冷たい視線を浴びることになる。
 確かに僕にとっても、コーヒーの匂いはそれ程不快ではない。それでも、こうもたばこに関して風当たりが強いと、「あっちで飲んでくれ」と言いたくなってしまう。
 僕も、高校の頃はコーヒーを飲んでいた。山のように出る宿題をこなすため、眠くならないように、インスタント・コーヒーをうんと濃くして飲んでいたのである。お陰でお腹をこわし、テストの時に散々な目にあったりもした。どうも僕がコーヒーを飲んでリーゲーしてしまうのは、そうした体験に基づく心因性のものである気がしてならない。
 そうした暗い過去を引きずっている僕にとって、コーヒーを悠々とお替わりできる人が、少々妬ましくも思えてくる。「臭えんだよ、コーヒーが!」と叫んでみたくなる。

 愚痴はこれくらいにして、嗜好品と解釈したとして、お酒の話を書こう。

 僕は、酒好きである。
 どちらかと言えば、大勢でわいわい飲むよりは、自分の部屋で一人でゆっくり飲む方が好きである。なぜかというと、何も気にせず、自分の好きな酒のあるだけの量を、自分のペースで、しかも安く飲めるし、好きな酔っ払い方ができるからである。それに、嗜好品の大原則である、「人に迷惑をかけない範囲で」というのを犯す心配も少ないといえるからである。
 僕の場合、幸い暴力的になったり、大声でわめきたてたりするような外向的なタイプの酔っぱらいではないので、刑事事件に発展するようなことはまず滅多に無いと思うのだが、愚痴ったり、説教じみた話を歯に衣着せずに言ってしまったり、話してはならないことを口走ったりする、どちらかと言えば内向的、或いは、語り型の酔っぱらいになってしまうことが多い。
 酔うという現象は、人の内面を増幅してあらわにするところがあるから、まあ、酔っぱらっている僕はかなり本質的な部分を露呈していると思って貰ってもしょうがない。でも、それは僕だけではない。あなただってそうなのだ。酒は人間誰しもが持っている狂気を引きずり出す魔物なのだ。

 私事から離れて、ちょっと一般的なことを書いてみよう。
 最初に、酒の強い弱いについて。
 アルコールを摂取し始めると、血行を良くしたり、気分を高揚させたり…といった反応が体に起こる。同時に、体内に吸収されたアルコールにより、末端から中枢へと徐々に神経が麻痺し、運動能力、思考能力などをどんどん低下させる。これらが「酔う」ということの体に見られる変化な訳である。そこでまず問題となるのは、体内でアルコールをどれだけ速く分解できるかどうかが、その人の酔う酔わないを左右する訳なのである。
 そのように、体内でアルコールの分解が行われる過程で、アセトアルデヒドという中間物質が生成されてしまう。実はこの物質が二日酔いの頭痛のもととなったり、酔うと顔が赤くなるという症状を引き起こす元になっているらしい。このアセトアルデヒドに対して、人間はアセトアルデヒド脱水素酵素をいうものをもって備えている訳であるが、この酵素にはⅠ型とⅡ型の2種類あり、Ⅱ型を持っていない体質の場合、小量のアルコールで顔が赤くなったりするそうである。
 また、アセトアルデヒド脱水素酵素は、どれだけもっているかによって、酒に強い弱い、つまりアルコールをいかに早く分解できるかどうかが、決まってしまうようなので、「鍛えてこれだけ飲めるようになった」とかいうのは、医学的な根拠はないようだ。これは、生まれもった体質に100%関連する問題なので、「どんどん飲んで、もっとたくさん飲めるようになりたい」と思っている人は、残念ながらそれは無理な話らしい。
 が、人間の体は、水酸化ナトリウムと塩酸で、食塩水になるようにはいかない。例えば、好きで酒を飲む僕だって、ひどく落ち込んでいるときなどは幾ら飲んでもちっとも酔っぱらわないし、本来酔うと黙り込んでしまうことが多くても、飲む相手や状況によってちょっと飲んだだけで異常にはしゃいでしまうこともある。いろんな人に聞いても、気分やコンディションによってさまざまな酔い方をするのは事実のようである。

 ところで、さきほど「僕は幸い外向的酔っぱらいではない」と書いたが、どっちが他の人にとって迷惑かとかの問題ではない。酒とのつき合いは、どうしたって、慎重を極めなくてはならないことなのである。
 が、何度そうした失態を演じ、死にたくなるほど後悔しても、経済的にゆとりがあったり、何かしら機会があったりすると、ついうっかりキャパシティを越えた量のアルコールを摂取してしまう。情けない話である。一般にお酒が好きという人の中に、あるいは僕の身辺に、僕みたいなタイプの酒飲みは少ない。だいたいが、居酒屋とかでみんなで楽しく、という形でないと飲まないという人の方が多い。だから、僕が家で独りで飲むのが好きだと言うと、「本当にお酒が好きなんだね」と半ば呆れ顔で言われてしまい、相当に酒の強い奴だと思われてしまう。
 そんな僕が、アルバイト先などで、忘年会とかあったりして、種々の事情が重なって、途中で眠り込んだりしてしまおうものなら、他の人から「強がっている癖にだらしない、酒に飲まれている」などと揶揄される。僕は、自分の口から「俺は酒が強い」なんていっぺんだって言った事はないし、確かに、酒は好きなのは認めるが、そもそもそれほど強い方だとは思っていないし、強いのが偉いとも思っていない。
 「好きだと強い」、これも世間の短絡的決め付けだと僕は思う。

 僕にとって、酒とはどういうものなのか、考えることがしばしばある。手元にあれば、無節操に飲んでしまうし、少々経済状態に不安があっても、酒の席に呼ばれれば欣喜雀躍して参加するし、とにかくアルコールを摂取することが、好きなことには間違いないのだが、実際のところ僕の場合そんなに酒を飲むということが、それほど気持ちいいことではないことも多いからである。
 最近それほどでもないが、一時期はその場の人数が多ければ多いほど、黙り込む傾向があった。「みんな楽しそうに話しているから、別に俺が喋って無くたっていいや」と思ってしまうのが一つと、酔い始めると過去にあった思い出したくないことを次から次へと思いだし、暗澹たる気分になってくる、といったところが主な理由である。
 そうして黙りこんでいると、親しい友達が「楽しくないのかい? 気分が悪いのかい?」と、心配してくれる。なにか話そうか、と思い、暗い気分のまま話し始めるといわゆる「語りにはいる」状態になり、楽しく飲みたいと思っている人たちからは煙たがられる。そのうち愚痴りが始まり、自分のことは棚に上げ、の説教臭いことを話し始める。と言う具合に、毎度のごとく破滅型のパターンへとはまって行くわけである。
 僕の酒の席での失態のほとんどが、このような形で展開される。つまり僕は、みんなで楽しもうという前提での席にふさわしくないタイプな訳である。一人で飲むのが好きなのは、結婚式に喪服で現れるようなことをしてしまうことになるというのを自覚し、警戒しているからなのである。
 居酒屋や、夜の繁華街でよく見かけるいかにも楽しそうな酔っぱらいおじさんに、どうすればそんな酔っぱらい方が出来るのか、メモを片手に聞きたくなってしまう。
 一人で飲んでいたって、いやなことを思い出してしまうのは同様だし、心ゆくまで飲んだからといって、次の日には、しっかり気分が悪くなるし、程々で飲むのを止めたからといってストレスが解消されたという実感を得られることも少ない。
 それでもなぜ、懲りずに酒の席には顔を出し、一人陰気にがぶがぶ酒を飲むのだろうか、と悩んでしまう訳である。

 まるで飲んでいるときのようにぐちぐち言うのはやめにして、僕の好きなお酒について書こう。
 僕は洋酒が好きである。醸造酒よりは蒸留酒の方が好きである。
 またちょっと蘊蓄めいた話になるが、蒸留酒というのは、元の酒の水分などを蒸留することによって、アルコール分を高くするために造られたお酒である。その蒸留の過程で、アセトアルデヒドの成分も蒸留されているらしいから、悪酔いしにくく、しかも大量に飲まなくても、酔えるという、酒好きにはこたえられない種類のお酒なのである。それを知って、蒸留酒ならいいんだと思い、安心して焼酎を飲めるだけ飲んでみたのだが、やはり次の日の気分は悪かった。「悪酔いしにくい」のであって、「悪酔いしない」という訳ではなく、何事も限度はあるものだ…と、思い知った。
 僕はスコッチが好きである。一番好きなのはシーバス・リーガルだが、値段の張るものは、大抵うまいと思える。あと、バーボンで僕が好きなのは、ジム・ビームのライ・ベースのやつ(黄色いラベル)で、これを飲んでいると、本物のジム・ビームを出されても『This ain't Jim Beam!』と言って、店のカウンターにぶちまけたくなる。
 あとまあ、特筆に値するといえば、151プルーフ(75.5度)のロンリコだろうか。そんなきっつい酒がうまい訳なかろう、と僕も最初は思っていたのだが、これが非常によろしい。最初はロックとかで飲んでいたのだが、ボトルの半分くらいまで飲むと、割るのがもったいない気がして、ストレートで飲むようになった。友達に勧めても、強い酒でも大丈夫な人は、大抵喜んで飲んでくれる。
 いくつか挙げてみたが、どれもがまずまずいい値段のお酒である。やけ酒が原因で習慣的に飲むようになった僕だが、その当初からV.S.O.P(ブランデー)だったし、とにかく安い酒は焼酎とビール以外飲まない。
 ウイスキーであっても、日本のメーカーの750mlで二千円切るような値段のものとかは、よっぽどの事がないと飲まないようにしている。焼酎だって、まあ、鹿児島出身だし、蒸留酒だし、安いし、まあいいか、と思って飲むようになった訳で、地元でもTVでコマーシャルをやっている類の芋焼酎くらいしか飲まない。
 じゃあ、日本酒は?と聞かれたら、僕はノー答える。本当にいいものは、おいしいと思ったこともあるが、だいたい醸造酒だし、いい思い出がないから飲まない。お酒を飲む人は、経験的にお酒の好き嫌いを決めてしまうことが多い。詳しい事情は書かないが、僕はその場合の嫌いなお酒が日本酒なのである。

 とまあ、本当に長々と大した内容でもないことを、だらだらと書いてしまったが、何にしても人の迷惑にならない範囲で楽しんでこそ、大人というものである。そうなりたいものである。

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