13日の金曜美術館

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その6.バイクの話

 どうでもいい事なのだが、一部から僕は無類のバイク好きだと思われているようである。
 鹿児島の実家まで、高速道路づたいに帰ったりするし、少々遠くても、バイクで通勤したりしたりするからそう思われても仕方ないとは思うのだが、実際の所、『無類に』と言うほど僕はバイク好きなわけではない。
 確かに、バイクに乗るという行為は、それ自体が楽しい。後ろに女の子が乗ってくれたりすると、そりゃもう嬉しい。通勤や、モデルさんの送り迎えなど、日常生活でも十二分に役に立ってくれている。最初にそれほど好きではないと書いたのを、ちょっと後悔するくらいは好きである。

 車にしか乗らない人は、バイクは夏爽快だろうと言うかもしれないが、バイクに乗っていても暑いものは暑い。股の間に、一分間に数千回も爆発を繰り返すエンジンがあるから、下半身の暑さたるや上半身の爽快さ程度では補いきれないほどの熱気である。その熱だって冬の寒さには何の役にも立たない。
 それに、女の子を後ろに乗せて嬉しいと書いたのは、客観的な絵柄がいい、つまり、「ほれ見ろ、後ろに女の子がのってんだぜー、いいだろー」と、自慢げに走る事が出来るから嬉しいと言う事である(少なくとも僕の場合)。よく言われる「背中が嬉しい」という事だってほとんどない。なぜなら、接触しやすい体型の娘は、接触させたいと思っていない限り、接触しないようなつかまり方をするからである。乗せる側の僕としては、「危ないから、腰に手を回してしっかりつかまってね。うししし」なんて事は言わないようにしているし、女の子を乗せるときは特に、しっかりつかまっていないと危ないような乗り方はするべきではないと思っている。
 接触はともかくとして、長距離後ろに女の子を乗せていたとしても、信号待ちの時くらいしか話も出来ない。結局、自慢げに走れる以外は、女の子が後ろに乗っていても特別にいい事はないのである。

 もう一つ不満を書くと、運搬能力に乏しいという事である。何にしても、自力で漕いだり引っ張ったりする乗り物でない以上は運搬能力があればあるほど良い。5個入りティッシュペーパーぐらいのかさばる物を買いに行くときぐらいは我慢できるが、かさばる物を運ばなくてはならないのっぴきならない状況、例えばコンクールに100号くらいの大作を出品するとか、引っ越しするとか、そういうときには、誰かに車を頼むしかない。直接バイクに対する不満ではないが、頼む人に申し訳ないし、情けなくて臍をかむ思いである。趣味性の強い乗り物という事で税金が割高なのもやむを得ないと思ったりもする。
 これらの不満は、所有している乗り物が車ならばたいていは解消できるのである。「そんなに言うなら車買えよ」と言われるかも知れないが、僕にそんな金はない。バイクの免許や、バイク自体は、自分で賄える範囲だから手に入れる事が出来たのである(スクーターも入れるとバイクは4台乗り換えてきたが、全てがローンを組んで購入した)。帰省するときにバイクを使うのも、鹿児島に帰ったときに足がなくては遊びに行けなくて不便だからだし、通勤に使うのも、今のアパートから駅までが遠いし、電車代よりもガソリン代の方が安い上に、ずっと座っていられるからなのである。結構しょうがなくて乗っているところがあるのである。それほどバイクが好きではないと書いたのは、そういう切ない事情があってのことなのである。

 だいたい本当にバイクが好きな人なら、バイクにもっとお金をかける。僕などは、タイヤにしてもオイルにしても交換時期を過ぎて、もうこれ以上は本当に危険だという時になってからやっと交換するし、チューン(馬力をあげたり、よりスピードがでるようにしたりして改造する事)したり、購入時以上に見栄えをよくしたりも殆どしないといった有り様である。
 それにしても、好きな人は好きである。限定解除(大型の免許までとる)はするわ、あちこちいじるわ、高いタイヤは履くわ、皮つなぎを着るわ、それはもうお金をかける。かけなくても好きな人は好きなのだろうが、それはそれとして、車も持っている上にバイクも持っているとか言う人などは、もっと本物っぽい。好きで乗っているんだなあという感じが良く出ている。そんな人たちと、僕が同様に見られてしまっては、そういう本物の人たちに申し訳ない気がするのである。だから、それほど好きではないと明言しておく訳なのである。

 冒頭に書いたように、夏に帰省するときには、行きか帰りのどちらかは、必ずバイクで、陸路を使って帰省するようにしている。免許を取った大学二年の時から、帰省するときはずっとそうしている。最初は一回やってみたかったというだけであって、それ以降は帰ったときに不便だからと思いながら半分しぶしぶそうしていたものの、今では夏の一大イベントとして定着している。(注 平成八~十二年までやってません)
 初めて陸路で帰ったのは、大学2年の時の春休みだった。大学二年の時の夏休み、高校の頃お願いしたモデルさんとデートする機会を持つ事ができ、今度また逢えたら買ったばかりのバイクに乗せてどこか遊びに連れて行ってあげようと思っていたのであった(注 この頃は、そんなにしょっちゅうモデルさんを頼むことはなかったし、モデルさんと絵描き以上の関係以上のことはするまいと思ってはいなかった)。
 どうしてだったか忘れたが、ある時までに鹿児島に僕が着かないと会えないと聞いていたので、急いで出発しなくてはならなかったのだが、免許を取るのに思っていたより日数がかかり、残された日数がわずかになってしまったのである。

 バイクは届いていて、あと免許さえあれば、モデルさんと鹿児島でデートなのに、と焦っていた僕は、免許が発行された次の日に鹿児島まで出発してしまったのである。
 フェリーの予約を取る暇もなかったし、うまく行けばフェリーなんかより早く鹿児島に着けるかもしれなかったので高速を使う事にしたのだが、ライダー歴が殆どない僕にとって、これは相当な覚悟が必要だった。隣りに住む高橋君に「もしもの事があったら、アパートを引き払って、その敷金を使って荷物を実家に送ってくれ」と言い残して出発したくらいであった。

 初めて乗った高速道路で、いきなり雨に降られるし、三月の中旬とはいえ、行けば行くほど暖かくなるはずだから、つらいのは最初だけだと思っていたのに、京都をぬけるまで死ぬほどの寒さだったし、高速代をけちって京都で高速を降りてしまったため、思ったより時間がかかり、鳥取までしか体力が持たず、一泊してしまったり、それはもう大変な旅だった。危ない事も何度もあった。どこがどんな景色でなんて、ゆっくり見る余裕もなかった。それでもどうにか、まる二日かかって命からがら帰り着く事が出来た。
 二十一歳の若気のいたりとは言え、今思うと恐るべき下心である。250ccのバイクによる1,500kmの過酷な旅であったが、その苦労あって、と行かないのが人生である。その春休み、モデルさんとデートする事は出来なかった。トホホ。(会えたとしても、免許がとれてから一年未満での二人乗りは違法)

 それ以降は、高速を途中で降りてなんてことはせずに、休みもサービスエリアおきに10分ぐらい休憩するぐらいにして、ぶっ続け走って帰っている。暑さと眠さ、まさに体力の限界との闘いである。それでも、そうやって走り続けると、二十数時間で鹿児島まで着いてしまう。鹿児島~東京の距離感が何となく麻痺してしまう気がするが、地図の縮尺でみる隔たりが、実際はどんなふうなのかを実感できる貴重な時間である。
 何だか冒険家を気取ったような事を書いたが、スーパーおっちょこちょいの僕が、高速で1,500kmもの道のりをバイクに乗って帰ると、必ず一つはトラブルが起こる。幸いな事に、大けがをするとか、バイクが故障するなどの悲惨なアクシデントに見舞われた事はないが、ものをなくす、道に迷うなどは、最初から予定に入れて考えているほどである。
 日常でも、ポジションランプのつけっぱなしによる、バッテリー切れは、ほぼ季節に一回はやってしまう。バイク自体のトラブルによるものも含めれば、僕はしょっちゅう押しがけをしている。今までに僕が押しがけに費やしたエネルギーといったら、幕内力士の年間稽古量に匹敵するであろう。

 そこで、バイクにまつわるおっちょこちょい話を一席。
 1992年の夏のことである。その年は厄年にあたる年で、何か良くない事が起こらないと良いがと思いながらも、高速道路を鹿児島に向け疾走していた。13時間ほどして、中国自動車道の広島辺りだったと思うが、それまでと一転して、雨が降ったり、からっと晴れたりを繰り返す嫌な天気になり、バイクに積んでいたレインスーツを着たり脱いだりを繰り返す羽目になってしまった。
 四、五度に渡って脱ぎ着を繰り返し、雨も上がったため、着ていたレインスーツを脱いで、畳んでしまおうと思ってバイクを路肩に止め、後部座席を見ると、なんと荷物を固定するためのネットだけがバイクのフックに引っかかってひらひら揺れているだけになっていたのである。積んでいたはずのバッグ、普段履きの靴、グローブ(日中は手袋形の日焼けが残るのが嫌で、後ろに積んでいた)等の荷物はすっかり姿を消しており、どうやら何度もネットのフックを掛けはずししているうちにうっかり掛け忘れてしまったようで、荷物をすっかりバラまいてしまったのである。

 どうしたものかと思案した挙げ句、僕は逆戻りして歩いて探しに行くという手段をとった。高速道路を乗り物から降りて歩いたりするのは本来違法なのだが、近くに非常電話もなかったし、電話があったとしても、道路公団の人に落とした荷物を拾ってくれとも言い辛かったし、バッグの中には大切な物も何点か入っており、一刻も早く見つけたかったのである。
 すっかり雨の上がった炎天下、歩きにくいブーツのまま20分はたっぷり歩いた。すれ違うトラックの運転手の視線を気にしながら、山あいの高速の狭い路肩を、なくなっているはずはないと、はらはらしながら祈るような気持ちで歩いた。途中でグローブの片方、そして、バッグが雨に濡れないようにかぶせておいたポリ袋等を、どうにか発見出来た。あともう片方のグローブと、普段履きと、バッグさえ見つけだせば一安心と思い、更に歩きだそうとしたとき、幸いにも道路公団の車が通りかかった。めまいのしそうな暑さの中を歩いてきた僕の目には、車中の二人のおじさんの頭上に天使の輪が見えた。
「向こうに止めてあったバイク君のか?」と聞かれ、事情を説明すると「よし、分かった。ここを歩いては危ないから、次のインターで待ってなさい。見つかったら拾ってきてやるけんのう」と、道路公団の人は指示してくれた。次のインターで待つ間に、チェーンの張り直しをしようと、チェーンを見ると、もう片方のグローブがズタズタになって、挟まっているのを見つけた。
 30分ほどして、道路公団のおじさま方は、残りの荷物を全て見つけてきて下さった。ほっとしながら懇ろにお礼をいい、中身を改めると、鞄はほぼ無事だったが、靴はトラックか何かに踏んずけられたらしく、片方が『く』の字に折れ曲がっていた。グローブと靴、しめて約一万五千円の損失であった。

 …と、ここでオチとならないのが、『人生是厄年』と呼ばれる僕の僕たるゆえんである。
 もともとエンジンの寿命の短さは定説であったその時のバイク(GPZ400RのⅡ型)ではあったが、その時の長距離高速走行が原因となり、エンジンはお釈迦となってしまった。走行20,000km弱の寿命であった。おかげで中古エンジン積み替え代で六万円の追加出費だぜ! おまけに、八日間の帰省期間のうち四日間の修理期間を要し、何のために乗って帰ったのか考えると、俺ってとっても馬鹿だなあと思いましたとさ。

 とまあ、この手のバイクにまつわる話に関して書くと、銀座から名古屋くらいまで時間を潰せてしまうので、これくらいにしておくが、バイクに乗っていて、しかもおっちょこちょいなばっかりに、しなくて良い苦労を人一倍してきた僕は、やはり素直にバイクの事を好きだと言えない訳である。

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