13日の金曜美術館

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電車の中で読む本

その5.気遣いの話

 人間関係において、気遣いという事についてしばしば考える。こちらは気遣いのつもりで良かれと思ってやっている事が、相手の機嫌を大きく損ねてしまったり、当然の気遣いと思う事が、どうしてそこまで気を遣う必要があるの?と言われてしまったり、とにかく非常に難しい問題である。

 中学の頃、NHKのFMを聞いていて(どうしてNHKなのかと言うと、当時鹿児島には、FM局は、NHKしか無かったのである。今は民放も一局出来ている)、何かの音楽番組に、ゲストとして所ジョージがでていて、およそこんな内容の事を言っていた。
 「…楽屋とかで、疲れていて横になっているときに、枕として座布団を差し出されたとする。神経質でない人は、そのまま礼を言って、本来お尻の下に敷くべき座布団に、平気で頭をのっけて枕代わりにする。普通の神経質な人は、こんなモン頭の下に敷くのは嫌だと言って、いらないよ、と突き返す。ホントに神経質な人は、親切に座布団を差し出してくれた人の気持ちも考え、なおかつ座布団を枕代わりにするのも嫌だから、座布団を枕にしているように見せかけて、1cmぐらい頭を浮かせた状態で横になる。本物の神経質って、そう言うコト…」
 それを聞いていて、僕は神経質というよりは、気遣いというか、とにかくそうしたものの本質を諭されたような気がした。自分の信念を貫きながらも、介在者には不快感を抱かせない、気を遣っていながらも押しつけがましくない、気遣いというものの一つの究極の形がそれだと思う。今になっても、所ジョージの言葉は、僕の中で息づいているのは事実だが、それをその通り実行できるなら人間苦労しない。未だに、所ジョージの境地には至れない僕である。

 さておき、気遣いの範疇と思われる事の中で、僕が特に留意している事の中に敬語がある。
 自分自身では常識的な範囲で、普通に使っているつもりなのだが、時折「まわりくどい」、「慇懃無礼だ」、「人間関係にカベを作ろうとしている」などの批判を受けることがときどきある。そして、「なぜ、そうまでして敬語で話すの?」と聞かれる訳だが、事情はおおよそ以下の通りである。

 中学の頃に校内弁論大会があり、クラス代表として壇上に立った事がある。一年生の時である。そのときの論旨が『敬語について』であった。「学校生活の中で、目上の人に常体文のままで話をしていませんか? もしそうならおかしいんじゃありませんか?」と言うのが僕の主張であった。
 国語科の宿題で、校内弁論大会用の原稿を提出するように言われ、特殊な生活環境でもなく、福祉関係について関心ががあるわけでもなく、聴衆に向かって、「どうだ、そうだろ?」と納得させるような主張も何もなかった僕が、苦し紛れに部活動をしているときに何となく気になっていた事を文章にして提出したところ、クラスの代表にされてしまったのである。中一の頃とはいえ、内容的にも、文章的にも、論旨としても、代表としてかつぎ出されるような代物ではなかったと思うのだが、弁論大会の場合、演技力とでも言おうか、どれだけ感情を込めて語れるかと言うのも評価の対象となるので、僕の地声が大きい事も幾らかプラスになったのかも知れない。
 そうして、同学年の生徒全員の前で「目上には敬語を使え! 使わない奴は態度がなってない!」といった内容の事を言ってのけたのであるから、当の本人が不手際では埒があかない。と言う訳で、敬語を使うという事に必要以上に慎重になってしまった訳である。
 もともと耳に聞こえる敬語の響きには心地よさを感じていたし、ひととなりは言葉遣いで判断されるがちであるという下心もあったため、そうした習慣はあっという間に僕の体に染み着いてしまった、とそういう事情である。

 ちょっと本筋からそれた話になるが、単純に「年上の人には敬語を使って話をする」、高校の頃まではそれでほとんど問題無かった。弁論大会で大見得を切った分の面目を果たすくらいは、きちんと然るべき時にほぼ正しい敬語を使って話し出来ていたはずだ。ところが、大学にはいると状況が違ってきた。同学年にして年上と言う人が身辺に現れたのである。入学当初は随分と戸惑った。現役で入学できた僕からみれば、一年や二年浪人して入学した人は、同じ学年とはいえ、年齢的にも経験的にも先輩である。そうした先輩とも解釈し得る人に対しても、敬語を使って接するべきなのだろうか…と。
 そして悩んだ挙げ句、もし、そうした同学年の先輩にあたる人に敬語を使って話したとすると、「あなたは浪人したんですね、僕は現役で入学したんですよ」と、暗に言っている事になる気がして、それこそ慇懃無礼ということになってしまうのではないかと思ったため、この場合は常体文で話する事にした。常体文で話すにしても、敬意を払って話すのと、ほぼ対等に話すのとの区別だってできる、と思ったのである。
 浪人の経験のない僕にとって、浪人したということは計り知れない苦労を伴った苦い過去であり、できる限り触れられたくはない事なのであろうと思うがゆえの、逆説的な気遣いという訳である。
 そうした紆余曲折をきっかけに、年が上だから敬語で喋ると言う短絡的な判断による言語生活は、今後通用しないのだと気が付いた。そこで、あらたに自分なりの敬語を使う相手を見極めるための取り決めを作っておく事にしたのである。
 どういった内容か紹介しよう。まず…と、書き進めようと思ったのだが、実際考えていた事をまとめてみて、色々と差し障りがある部分もあるので、以下十数行はカットさせて頂く事にする。まあ、これもちょっとした気遣いと思っていただきたい。
 とはいうものの、ごく基本的な部分だけ述べておくとすると、

『とりあえず自分は人よりもちゃんとしてない』
『年齢に関係なく敬意を持つべき相手には素直に敬意を払う』
『お世話になった人にはそれ相応の義理は果たす』

 等の事を常々考えながら、敬語を使っている訳である。

 まあ、敬語の話はこれくらいにするとして、このあたりまで読んできたあなたはそろそろ、なんてカタ苦しい人なんだろうと、思っているかも知れない。そう、僕は、困ったことにカタ苦しいのが大好きなのである。

 何となく思いついた事で、唐突に話題を変えてしまうが、以前、大学の道徳教育の教授が、「男尊女卑で知られる鹿児島では、未だに同じ物干し竿に男物と女物は干さないのだ」等と言っておられた。
 引き合いに出した県、つまり鹿児島は僕の生まれ故郷であり、1986年までの鹿児島の状況を世間知らずながらある程度は知っている人間だからという前提があってはっきり断っておくが、それはとんでもない間違いである。この天下のフェミニストの僕を前にして、よく言ってくれたものである。確かにひと昔もふた昔も前はそうした風潮があったようではあるが、今となってはそんな話など聞いた事もない。まるで、鹿児島の男衆は、女性の立場に対する気遣いはまるで持ち合わせがないかのような発言は、甚だしい認識不足である。公共の場、然も教壇で、かくも認識に欠けた発言をするなど教育者として…とまあ今更感情的になったってしょうがない訳である。

 話題を変えよう。
 何はさておき、僕は人と話をするのが大好きである。単純に雑談するもよし、職場で仕事の話をするもよし、些細な事で口論するもよし、とにかく何でもいいから話のできる相手が欲しいと思うのは、僕に限らず人間不審に陥っている人でなければ当たり前であろう。
 そんな種々の会話の中で、僕が一番気をつけているのは、『同じ話はできる限り同じ人に二度しない』という事である。この場合の『話』というのは、漫才で言う『ネタ』に近いものである。
 多人数で話をしているときは、やむを得ない事も多いが、一対一の会話のときでは、やはりこれはタブーだと思う。
 誰かから面白い話を聞かされたとして、それがどれだけ面白い話でも、同じ人から、同じ様な語り口で、「さあ、面白い話をしてやるぞ、どうだおかしいだろう、さあ笑え!」という感じで再び聞かされると、聞いている側は、どんな顔をしていいか分からなくなってしまう。それに対してもう一度初めて聞いた時のように笑って見せられるほど、ぼくは芸達者じゃないし、話がよけいに面白ければその分だけ、二度聞かされる側はドッチラケになってしまう。また、僕の場合、どうしたわけか、些細でどうでもいいような内容の事ほど非常によく覚えている傾向があるので、余計に気になってしまうのである。
 むろん僕だって同じ人に何度も何度も同じ話や質問をしてしまうことはある訳だが、もし「それ前にも聞いたよ」とか、「またその話?」とか言われたときのショックといったら、腰が抜けるかと思うほどである。
 とまあ、そんな思いをする度に一対一で話をする場合に、自分だけは話す相手に同じ思いをさせないように気を付けようと肝に命じるようにするわけである。

 僕が感じるに、同じ話を二度されるのと同じくらい砂を噛むような気持ちにさせられるのは、せっかくの面白い話の中に、文法的な、あるいは、根本的に日本語としておかしな表現を発見してしまった時である。人の心を打つような話を聞いているときなどでも、不適切な表現と直面してしまうと、その時点で説得力が感じられなくなってしまう。例を挙げると…何となく角が立ちそうな気がするので止めておくが(気遣い)、これも聞いていて非常に切ない気持ちにさせられてしまう。正しく覚えていない言葉なら使わなきゃいいのに、と思ってしまう。タモリや、ビートたけしがお笑いとして世に認められていると言う事実は、話芸の根本をなす、彼らの日本語がしっかりしているからである部分を軽視する訳にはいくまい。
 「偉そうな事をいって、じゃああんたは100%正確に日本語を使っているのか?」と、読んでいて思う人も多いであろうが、斯くいう僕だってそんな言葉遣いの間違いといったら枚挙に暇がない。比較的最近の恥ずかしい間違いの例を挙げると、「あぐねる」という言葉を「~するのに抵抗がある」という意味で使っていたり(本来は飽きる、疲れるの意)、「罪悪感」(ざいあくかん)を「ざいおかん」と読むのだと信じ込んでいたりと、思い出すも恥ずかしいことばかりである。
 ずいぶん昔の話になるが、中学の頃の作文のとき、筒井康隆の少々エロチックな小説で読んで覚えた「欝血する」(静脈の血液が流れずに滞る)という言葉を「赤くなる、充血する、転じて怒る」と言う意味だと勝手に思って、いたるところで「…みんなの不真面目な態度を見て僕は欝血した…」などと使っていたため、国語の先生に「この馬鹿者! 普段何を読んでいるんだ?!」と叱責を受けたりしたことだってある。やはり日頃から気を付けてはいても、言葉づかいの問題は難しいものがある。

 何だか気遣いとはほとんど関係ない話で終わってしまうわけだが、こうしてこの「おまけ」の文章の中でも随分とへんてこな表現があるだろうな、と思う。もし見つけたら、葉書にその箇所と、住所、年齢、お名前を書いて、お宅の畳の裏に隠しておいて下さい。

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