13日の金曜美術館

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電車の中で読む本

その1.なぜこういう個展をやろうと思ったか?

 個展『1827』について、その動機、経緯、魂胆について明らかにしておこうと思う。別に言い訳をしたいわけではないし、説明に結果についてのフォローをしようとしているわけでもない。
 いざ個展をやるともなると、少なくとも十人くらいの人は来てくれるのではないかと思うし、本当に十人くらいだったとしても「どうして? 何で? 理由は?」と、繰り出される質問に対して、同じ事を来た人の数だけ漏れなく説明する自信もないし、正直な話、その煩雑さを思うとぞっとする。そこで、こういう形で皆さんの読む労力をお借りして、より確実に、より正確に今回の個展の意図を伝えたい、そういう訳である。

・動機、きっかけについて

 平成2年の春頃、個展をやろうと思い立った。大学を出て3年目のことである。
 公募団体というか、画壇というか、そうしたものに興味がなく、それでいて、年に一回程度コンクールに出品するだけの活動しかしていなかったし、就職もせず、アルバイトにひたすら精を出したりなどしていて、絵を描きたい、絵を描かなくてはと思いつつ、まさに矢のごとく過ぎていった年月に気付き、愕然とし、反省したのである。そして、「そうだ目標を持たなくては」と思い、個展をやってのけようと決意したわけである。

・制作を進めるにあたっての基本構想について

 以前、自分がグループ展をやったときや、同期の友人などの個展やグループ展を観に行ったときの事などを考え合わせて、もし自分が個展をやるなら、展示のテーマからタイトル、展示の仕方に至るまで、一切の干渉や制約を受けず、できるだけ妥協を排除した形でやるべきだと思っていた。
 それ故、作品個々の制作を進める一方で、個展全体をどういう形のものにしていくか、つまり、個展そのものを一つの作品として仕立てていくかを心がけるようにすべきだと思っていたのである。
 また、画廊の予約にしても、作品が全て出来上がってから金策を考え、その上で実行に移すくらいでいいと、時間による制約も極力避ける方向で考えるようにしてきた。とにかく、せっかくやる個展に対して、言い訳や妥協をしないという事を最優先させるように心がけてきた訳である。

 などと書きつつも言い訳じみるが、金策が思うに任せなかったり、生業がのっぴきならない忙しさになったりしたこともあって、あっというまに5年と数ヶ月の月日が流れ去ってしまった。個展を思い立った理由や、制作活動の活性化などという目標からしても、余りに時間がかかりすぎた。この点は、最も反省すべき事であった。
 作品一つ一つについては、「個展を一つの作品としてとらえる」という基本構想を考慮し、個展を構成するパーツとして制作を進めた。それゆえ、従来にない表現の試みや、実験的な手法の追求や、画風の改革などは一切考えず、これまで通りの「見たものを見える通りに描く」具象の表現に終始した。また、ある特定の作品にこだわるような事は極力避け、どれもが同等の仕上がり、完成度となるように心がけた。
 何度も書くようだが、今回の初個展は、来廊下さった皆さんに、作品一つ一つよりも、個展全体の印象を持っていただけるように考えて制作を進めたのである。だから、あの絵とこの絵は良かったと言われるよりも、全体的に今ひとつの個展だったと言われる方が、むしろ本来の僕の意図にかなった感想であり、それはある意味での成功といえることになるのである。勿論個展全体に対しての感想が良ければそれに越したことはない訳だが。
・個展のタイトルについて

 1827とは、365日×5年+2日という数字である。5年のうちに2度うるう年がやってきたので、5年とうるう年2日分の和が1827日と言うことである。もちろん、厳密な制作にかかった日数ではない。
 本当は、他にもふざけたものから重々しいものまで、いろいろと候補を考えたが、かかりすぎた年月への反省と自嘲を盛り込み、それでいて具体性が少な目な、どういう意味かわかりにくいものにした次第である。

・なぜ十五人のモデルさんなのか?

 以前から女の子にモデルを頼み、自分の作品として様々な形で人目にさらしてきた訳だが、そのたびに感じていたのは、観る人の興味が、作品そのものに対してではなく、描かれている女性に対して向けられているような気がするという事であった。観てくれる人の第一声のほとんどが、「誰? 彼女? え、違うの? どういう関係?」と、こうなのである。大学の教授たちすらそうであった。
これは、女性像を描く絵描きとしては、大変不本意で悲しい現実である。真剣に、真面目に女性のいる光景や人物そのものを描こうという意図や主張が、見る人が持つ僕が女の子にモデルを頼んでいるという状況への興味に負けているという事になるからである。
 まあ、確かにモデルと絵描きという密室的関係は、幾多の映画や小説のモチーフになるくらい、それ自体がスキャンダラスな匂いを含んでいる。事実として、何人もの巨匠がモデルとの間に残したスキャンダルは枚挙に暇なしという感じだし、そうしたスキャンダラスな部分が、作品や作家の印象をより強いものにしてしまった事もあっただろう。加えて、作品にとって、その制作の背景にある事実は、作品をより深く感じとる上で必要な情報たり得るのも、また事実であろう。そして、絵画を始めとした芸術作品が、観る人の想像力をかき立てることが一つの役割であると考えれば、僕がモデルさんを描いた絵を観て、モデルさんとどんな関わりを持ったのだろうと思うということは、そう言う意味では役割を果たしているといえるのかも知れない。だから、僕を含めた誰にとっても、それが興味深い事であるのを否定するのは考えすぎなのかも知れないと思えてくる気がするし、そう言う見方があっても良いとも思えてくる。

 それでも、テレビのワイドショーを興味津々と観るオバさんたちが持つような、野次馬根性丸出しの下衆の勘ぐり的な興味から、モデルさんと僕との関わりに首を突っ込まれるのは、僕の修行が足りなくて作品そのものが魅力的に仕上がっていないからなのはさておいても、やはり悲しいことなのである。
 何とかそうした悲しい思いをせずに、風景や静物などの作品と同様に、今僕が表現しうる内容をストレートに伝える方法はないか、そう考えた挙げ句に思いついたのが、多数の女性像をいっぺんにまとめて展示することによって、スキャンダルの匂いを誤魔化…もとい、払拭することが出来るのではないかという事だったのである。個展の作品の中で、女性の肖像がが一点や二点ならともかく、十数点もの女性像がずらりと並んでいたら、いちいち一人一人について詮索しようという気にはならず、「ああ、絵を描くためにモデルさんをたのんだんだな」と、まずは思ってもらえるのではないかと思ったのである。個展を開くにあたっての動機の中に、そうした僕の内なる主張も含まれていたのである。
 いずれにせよ、僕の思惑通りにいったかどうかは、来廊下さったあなたの判断にゆだねられている。次回お目にかかったときに一言いただけるようなら幸いである。

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