13日の金曜美術館

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電車の中で読む本

その3.なぜ女の子を描くのか?

 なぜ、あれやこれやと本来ならしなくても良さそうな苦労をしてまで女の子を描くのか? 答は簡単である。女の子に興味があるからだ。もっと言うなら女の子が好きだからだ。好きな物を、じっくりと観察し、よりよく理解するために描く、それがモチーフが何であるかにかかわらず、僕の制作の根本的な姿勢である。ぬけぬけと女の子が好きだから描くのだと言ってのけると、「助平の癖に開き直っている」と思われるかも知れないが、こちらは大真面目なのである。だいたい好きな物でなくて描こうという気が起こるわけがない。

 僕は、昔から今に至るまで、異性が自然な形ですぐそばにいるという環境に恵まれなかった。
 男3人兄弟の長男だったし、母親すら働きにでていたし、うちには祖母がいるだけであった。近所に歳の近い女の子もほとんどいなかったし、高校の頃の美術部と文学部にも、本来大勢いるはずの女子部員は、同学年では一人もいなかったし(女子部員が目当てで入部したのではないのだが)、モデルさんを頼んでも片っ端から断られるといった具合であった。「ボクは女性との縁がないのだ。呪われているのだ」と本気で思っていた事すらあった(今だってそんなに変わらないけど…)。僕にはそんな暗い過去があるのだ。
 僕もある程度歳をとり、人並の異性との付き合いは、少ないながらもそこそこしてきたはずなのだが、それでも女の子という存在は、そうした原体験のために、神秘的で興味深い存在のまま僕の心の中にあるのである。
 だから描くのである。描く事を通じて、異性の事を観察し、より深く理解しようとしているのである。僕が女の子を描くのは、無知な部分を補うための自己啓発という意味あいが重大な要素となっているのである。

 それはそれで事実として、絵に描かせて貰うに限らず女の子と交流を持つのは、男として理屈抜きに有意義な事である。楽しい。心ときめく。うきうきする。正直な話、それもモデルさんを頼んでうちへ来て貰い、絵に描く上での一つの楽しみではある。但し、それは飽くまでも付加価値的なものであり、本来の目的と取り違えることの無いように心がけているつもりである。

 「そうか、女好きにまかせて制作してんのか、こいつ…」と、あなたは思ったことだろう。ここであなたの家の最寄り駅に着いてしまったとしたら、ちょっとだけ時間を作ってこの章までは読んでいただきたい。
 僕は常々モチーフを選ぶときに、自分の目にしたときの状態を維持しにくいもの(布、なま物、など)とか、手近にあるブラウン運動をしている物(火、煙、水、など)に、強い興味を惹かれる所があった。自分が「いいな」と思ったそのものの状態を画面上に表現する事によって、その不安定な対象に対して、安定を、或いは不変性を与えたい、つまり自分が「いいな」と思った状況をいつでも自分の絵を見る事によって、その時の気持ち良さをいつでも再現できるようにしておきたい、という考えである。
 「だったら写真に撮れよ」なんて言うのは、この場合言いっこなしである。具象絵画と写真との関係についてなど、僕がああだこうだ言う事ではないし(言ってもいいけど)、そんな話をしたい訳ではないのだから、今日の所はそれは忘れて読んで頂きたい。

 ともあれ僕はある時から、そうしたうつろい易いものの一つとして、女の子の存在を意識するようになったのである。そう思う前から女の子の事を描いてはいた訳だが、そう思うようになってから、モチーフとしての女の子の見方は、僕の中で明らかに変わったと思っている。実際女の子というものは、うつろい易いものだし、なま物だし、布をまとっているし、人間の成分のほとんどが水分である以上ブラウン運動をしているわけだし、そんな点から見ても、僕が選ぶモチーフとして筋が通っているわけである(んだろうか?)。
 まあ、僕が女の子の人物画を制作している理由はだいたいそんなところである。

 さて、『その1.なぜ個展をやろうと思ったか?』のところでも書いたように、絵描きとモデルというと、何かしら猥褻な関係をイメージする向きがあるようだが、現実はそんなに艶めかしい状況が展開されることはなかなか起こり得ない。
確かに男にとって、自分の部屋で女の子と二人きり、然も長時間いられるというシチュエーションは、願ってもないチャンスだと言えるであろう。
 モデルさんを呼んで…などと、同性の知り合いに話すと、羨ましがられるのが常であるが、僕にとっては、仕事の関係上うちに来て貰うというだけのことでしかないのである。だから、どれほど他の人から羨ましがられようが、「あいつはとっかえひっかえ女の子を連れ込んできっと悪いことをしているに違いない。いや、そうに決まった」などと言われても、全然そんなことはなく、羨ましがられるようなことも起こらないし、ポーズのための時間と労力以外のことをモデルさんに無理に要求しているようなことはないのである。本当だってば!

 ところが僕がいくらそう言っても、モデルさんは見つかりにくいし、世間の人々もうさんくさげな見方をやめてくれない。なぜか。
 まず、一つ考えられるのは、僕等の偉大な先輩方がその様なイメージを駆り立てるエピソードを多数残してきたということである。モディリアニを始めとして、数多くの作家がモデルさんに対して間違いを起こしているし、そうした遍歴が芸の肥やしになり、作品に色気を生むという人までいたりする。
 加えて、絵描きが登場するドラマや映画を観ていても、女性像を描いている絵描きは、制作に行き詰まったりたするとたいていモデルさんに『うおーっ!』と飛びかかる。確かに僕のように品行方正な絵描きをドラマにしたって、面白くないというのは良く分かるが、それによって世の人々が、制作に行きづまった絵描き全てがモデルさんに飛びかかると短絡的に思ってしまうのは、無理もないと思えてしまう。これがひとつの大きな原因であろう。

 世の中にそうした先入観が定着している状況の中で、僕のような女性像を頻繁に描く立場の物が一番困るのは、モデルを頼む女の子や、その女の子に彼氏がいる場合、その彼氏に警戒されるということである(今まで、モデルさん本人よりも、彼氏に反対されるケースが一番多かった)。僕の今までの経験から察するに、僕が男だからというよりは、僕が絵描きだから、つまり、絵を描くというもっともらしい理由を盾に、女の子を自分の部屋へ連れ込もうと考えている不届き者なのではないか、と疑われるようなのである。

 確かに、僕に今のところ彼女に当たる女の子はいないし、モデルさんの彼氏に当たる人の気持ちもよーく分かる。勝手なようだが、どれだけ親しい友達からであっても、自分の彼女にモデルを頼みたいと言われたら、はっきり言って抵抗がある。もっとはっきり言うなら、真っ平である。こっちもそれが分かっているから、僕の方もしつこく説得する訳にもいかない。僕に限って間違いはないと言って分かってもらおうなんて、ムシのいい話である。
 おまけに、街には『簡単に誘いの言葉に乗らないようにしよう』と、警視庁印のポスターが貼ってあったりする。『モデルをやってくれませんか』なんて、いかにもと言う感じに聞こえるのもしょうがないと思う。
 僕が考えつく限り、このような種々の条件が、モデルさんを見付けにくくしているのだと思われる。困ったものである。

 さて、僕が「何人もの若いモデルさんを頼んで、しかも間違いを起こさずに制作をしている」というと、「信じられない、そんな事有り得ない」と、思う諸兄に対して僕がどうして間違いを起こさずにいられるかについて説明をしなくてはなるまい。
 中には、「女を部屋に連れ込んでおきながら、何もせずに帰すとは、何たる腰抜け」と、なんとも古風な感想をもらす知人もいるくらいだから、ここで僕自信がどういう心境で数多くのモデルさんたちを部屋に招き入れたかをしたためておく必要があるだろう。
 まず第一に、僕はモデルさん全てに大きく感謝しているのである。ふつう人の子なら感謝している人に対して狼藉をはたらこうとか、危険な目に会わせようとか考えないのが当然である。ただ、「ほら、僕の感謝の気持ちはこんだけだよ」と、重さやかさで示せないものなので大変困るのだが、自分でポーズの段取りを決めておきながらすっかり忘れてすっぽかす、長いことお礼を払わずじまいだったりする、など、それは嘘だ言われるような事をいくらしてしまっていても、親よりも、先生よりも感謝している。恩人と言っても良い。
 敬意を具体的に表している例について書くと、モデルさんが幾つ年下であっても、バイト先の社長さんと話をするときに使っても遜色ないようなレベルの敬語を使って話をするようにしているし(現役高校生のモデルさんのときは、お嬢様のお世話をする召使いになったようで流石に変な気がしたが)、雨さえ降らなければ、そしてモデルさんが嫌がらなければ、どんな遠くへだってバイクで送り迎えするし、ポーズ中に「明治のアーモンドチョコボールが食べたくなった」と言われれば、「あっ、これは気がつきませんで」とポーズを中断してでも買いに行くし、とにかく、どう言ったら分かって貰えるのか分からないほど、僕にとっては、大切な存在なのである。女神様なのである。そんなモデルさんに、失礼があってはならない訳だし、ましてや、狼藉をはたらくなど、もっての他だと思えるのである。

 それに僕の場合、前章で述べたようにモデルさんを探す際に、既にお願いしたモデルさんから、新しいモデルさんを紹介して貰うケースがほとんどなので、間違いを起こしたりしようものなら、絶対に次のモデルさんを紹介して貰えっこない。つまり、ただでさえ見つかりにくいモデルさんを探し出す貴重かつ大切なきっかけを失うことになってしまう訳なのである。
 そりゃあ僕にだって一寸の虫にも五分の…ぐらいの性欲はあるから、あー、このまま帰したくないと思うことだってある。ポーズの途中に劣情が湧いてきて制作を忘れそうになることだって、ごくまれにある。それでも、僕の心の中で、「お前は何のためにこんなことをやっているのかよく考えろ!」と、ベレー帽にスモック姿で絵筆をもった僕が、『五分の…』に喝をいれる。そう、これでも必死にこらえているのである。耐えているのである。
 勿論、今後もモデルさんをお願いする時にはこれまでの通りの接し方を当然の事として変えずにやっていくつもりである。それに、僕に言わせれば、一時のよこしまな感情を抑えきれないようなら、モデルさんを頼むべきではないとさえ思っている。
 僕がモデルさんに対してまちがいを起こさずにいられる事情について、分かって頂けたと思うが、どうだろう。

 まあ、こんなところで、モデルさんに対しての僕の考え方の概容は説明できたと思う。
 ひょっとすると、世に言うように、先にも述べたように、うつろい易い存在である女の子たちは美しくいられる期間と言うのは、本当に短いのかも知れない。しかし、そんな事を考えるべきでは無いと思う。
 でも、時間の流れは残酷なまでに不変だし、僕もあなたも、内田有紀でさえ歳をとる。人の姿形は良くも悪くも少しずつ変わっていく。それは事実である。
 そこで、女性との縁について呪われた身の上の僕であっても、女の子に対して、そういう役割のようなものを認めてもらえるのであれば、モデルさんとなるその女の子にとっても、ある程度の時間の拘束や、労力を費やしてはいても、それほど無駄な事ではないのではないかと思うのである。
 少々変な話ではあるが、僕がそんな役割みたいなものを果たし得るうちは、あるいはそうした役割を果たす事に喜びを僕が感じられるうちは、モデルさんを見つけられる限り見つけて行こうとするのではないかと思うのである。

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